では、そんな「可愛げ」はなにによって身につけられるのか? 具体的な方法やコツは後述しますが、大前提としては、「一日一善」のような行動を通じて、「徳を積む」ことにあると見ています。男性、女性、先輩、後輩にかかわらず、人には親切にする。そういったことが、人から愛される可愛げにつながり、いざというときの運のよさにつながっていく。
「一日一善」「徳を積む」「人には親切にする」といった言葉は、むかしから言われていた、ある種“陳腐な言葉”かもしれません。教訓めいたというか、押しつけがましい訓話のようにも聞こえるでしょう。ただ、わたしは思うのです。それらの陳腐な言葉たちは、自分の運気を上げるための“経験則”として、むかしの人たちから言い伝えられてきた言葉なのではないかと。
人に受けた恩を下の世代に流す
人柄のよさを意味する「愛嬌」「可愛げ」をもう少し深く考えてみましょうか。
この点において、わたしは「自分もあんな親切なおじさんになりたいな」と下の世代に思われるような人間であろうと心がけています。具体的に言うと、「人に受けた恩を下の世代に流す」人物でいたい。つまり、上の世代から受けた親切や厚意を、自分も下の世代にわたしたいということです。
一見これは、「情けは人の為ならず」と同じく、人にかけた情けは巡り巡って自分に返ってくる、という心がけに感じられるかもしれません。しかし、それはちょっと認識がちがいます。わたしはフリーランスの身だから後輩たちに助けられる局面がありますので、結果的にはそうなっていることもあるでしょう。ちがうのは、結果的にそうなっているだけで、恩を下の世代に流してもその見返りは考えないという点です。
見返りを考えてかけた恩というものは、受けた身からしたら少し複雑な気持ちになりますよね。ありがたいことはありがたいのだけど、どこか利用されているようでもあってなんだかいい気はしない。そんなことでは、「愛嬌」や「可愛げ」にはつながりにくいのです。となれば、やっぱり見返りは求めないほうがいい。
大切なのは、もっと大きなものの見方をすること。「人に受けた恩を下の世代に流す」ということは、大げさではなく世の中全体をよくすることにつながっていきます。機会に恵まれない若い才能や、若いがゆえに進まないものごとに手を貸す。それって、未来をよくする一種の社会貢献じゃないですか。自分への見返りを期待するよりも、そのような気持ちで恩をかけるほうがお互いの気持ちもいい。そして結果的に、下の立場の人間から尊敬されるかもしれないし、自分の運を高めることにもつながると思うのです。そんな先輩が困っていたら、後輩として助けてあげたくなるに決まっていますから。