「バレーメトロ」は2両編成で、乗り込んだ車両の座席は8割ほど埋まっていた。小さな子どもと若いお母さん、全員が大きなシェイクを抱えた太ったファミリー、穏やかにスナック菓子を分け合う老夫婦。ひと際目立っていたのはクリス・タッカーみたいに高い声で早口に喋りまくる黒人男性だ。楽器を持った白人男性グループが、音楽を奏でながら黒人男性と談笑している。う~ん、アメリカらしい自由な光景だ。だだっ広い風景が続く車窓を眺めていると、突然車内が色めきたった。何か口論になったようで、黒人男性が降車がてらに白人男性の顔を殴ったのだ。床には血が飛び散っている。興奮した人々が大声の早口で口ぐちに何かを言い合うが、こうなると私の英語力では正確に聞き分けられない。白人男性がジャケットの下に手を入れると、小さな悲鳴が響いた。彼が出したのはブルーのハンカチだったのだけれど、私は女の子を連れた若いお母さんに小突かれるようにして、慌ててメトロを降りた。
■江藤詩文(えとう・しふみ) 旅のあるライフスタイルを愛するフリーライター。スローな時間の流れを楽しむ鉄道、その土地の風土や人に育まれた食、歴史に裏打ちされた文化などを体感するラグジュアリーな旅のスタイルを提案。趣味は、旅や食に関する本を集めることと民族衣装によるコスプレ。現在、朝日新聞デジタルで旅コラム「世界美食紀行」を連載中。ブログはこちら