場外市場の火災が残した教訓 豊洲移転、地名を「築地8丁目」に

高論卓説
築地場外市場内で発生した火災=3日午後5時28分、東京都中央区築地(篠原那美撮影)

 3日夕、築地場外市場(東京都中央区)の老舗ラーメン店を火元とする火災があった。完全に鎮火したのは翌日の朝。新大橋通りに面した、比較的開けた場所にもかかわらず、消火作業は難航。長い時間にわたって黒煙を吐き続けた。

 この火事を受けて今一度考えたいのが、築地市場の豊洲移転問題だ。今は小池百合子都知事が掲げる「豊洲移転、築地にも市場機能」で進みつつあるが、もう一度、「豊洲完全移転」について考え直すべきではないだろうか。

 このことを考える上で、2つの歴史を振り返りたい。

 まず1つ目の歴史。現在の築地市場は、長年にわたる猛反対を乗り越えて生まれた市場であることを確認しておきたい。中央区日本橋の日本橋川沿いこそが、江戸幕府が開かれて以降、魚河岸が置かれていた場所。ここには卸売り事業者がひしめいており、明治以降は安全面・衛生面の問題が頻発していた。明治政府と東京市は、民営市場だったものを官営化し、移設しようと試みたものの、既得権益を守ろうとする事業者の猛反対によって前進することはなかった。

 暗礁に乗り上げていた移転問題が動き出したのは天災があったからだ。1923年9月の関東大震災により事態は急ピッチに動いた。同じ年の12月には当時の東京市が海軍から築地の工場用地を借り受ける形で仮設市場がオープン。それでも反対運動は根強かったが、10年以上の歳月をかけて近代的な築地市場への移設が完了している。未曽有の震災があったことで、ようやく移設が進んだわけである。いうまでもなく、市場機能は日本橋からの「一部移転」ではなく、「完全移転」だった。

 関東大震災と今回の場外火災とは比較できるようなものではないが、やはり危険を目の当たりにしたことで世論は変わったのではないだろうか。豊洲完全移転について今一度、議論すべきだろう。

 2つ目の歴史から学びたいことは、「柔軟なネーミング」である。すでに「築地」は中国や韓国など海外でも知られるブランド。豊洲へ移転したあとも、この「築地」という名前を生かす知恵が必要だ。

 地名が元の場所から移動したり、あるいは拡大したりする例は、いくらでもある。たとえば港区の虎ノ門はかつて江戸城の門があった狭い地域を指していたに過ぎないが、今では西久保などの旧地名を吸収して1~5丁目まで広大な場所を指す地名になった。

 かつて東京下町の貯木場は文字通り「木場」にあったが、埋め立てにより内陸化が進んだことから、美濃部都政下で大規模な換地事業を実施。木場の跡地は東京都立木場公園となり、本来の貯木場はそっくり埋め立て地である「新木場」へと移動した。羽田にある東京国際空港に対して、千葉県成田市に建設した新しい空港を大胆にも「新東京国際空港」と名付けた柔軟性からも学びたいところだ。

 現在の中央区築地は1~7丁目まであるわけだが、豊洲市場を建設した場所を江東区築地8丁目としてはどうだろうか。

 小池都知事に提案をしたい。「豊洲移転、築地にも市場機能」から「豊洲移転、築地市場の名前も移転」への転換を行い、東京五輪に向けていったん更地とする築地市場跡地は、まったく別の用途での活用を議論すべきではないか。

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【プロフィル】山田俊浩

 やまだ・としひろ 早大政経卒。東洋経済新報社に入り1995年から記者。「週刊東洋経済」の編集者、IT・ネット関連の記者を経て2013年10月からニュース編集長。14年7月から東洋経済オンライン編集長。著書に「孫正義の将来」(東洋経済新報社)。