「ウチの子は勉強した内容はよく分かっているのですよ。だから筆記試験の点数は悪くない。でも口頭試問の点数がイマイチなんです。ローカルの言葉や英語だからどうしても不利なわけですね。こういっちゃなんですが、喋り方の上手い下手が点数を左右するなんてずるいですよ」
ミラノの現地校やインターナショナルスクールに子供を通わせる日本企業の駐在員からたまに聞くぼやきだ。駐在員の子弟は滞在年数が短い。そういうなかでローカル言語や英語で成績をつけられる焦りがあるのは分かる。しかし、この嘆きには大きな誤解が隠されている。
冒頭の嘆きは、教育やテストの目的についての認識にずれがあることを見ていない。冒頭のセリフは筆記試験>口頭試問という図式で発想しているが、筆記試験<口頭試問と逆の位置づけになっていることを見ていないのだ。
イタリアの学校で教師と話していると、こんなことを語った。
「教育の第一の目的は自分の頭で考える子を育てることです。口頭試問でみるのは、生徒が与えられた問題に対して自分の頭を使って考え、それを自分の言葉で説明し、先生の反応をみて、さらにどう説明するか(しないか)を判断するプロセスです。筆記試験だけでは教育の大切な要素を見過ごすことになります」
日本とイタリアで「勉強が分かる」という意味が違うのだ。あるいは「実力」の定義が異なる。