■最大手企業があえてのクラフトで志すもの
一方でビール製品にとっての市場機会を考えれば、期せずして自宅での食事、晩酌生活を余儀なくされたことで自宅飲み需要が好調な中、やはり一味違うこだわりのテイストを求める心理は働きやすい環境があると思われます。それでなくても、ベルギービールやイタリアビールなど欧州系の日本のものと一味違うビールを出すレストランや、世界の珍しいビールを扱うカルディや成城石井などセレクトショップ的な要素を取り入れた小売店なども増え、日本人のビールに対する感受性は拡がる傾向であったように思います。そんな中であえての最大手キリンビールによるクラフトビールの市場投入だったわけです。
ジンなどを含めて世界的なクラフトブームですが、そもそもクラフトとはどういう意味でしょうか。もともとは手作りの工芸品などを指す言葉だったと思いますが、そこから小規模、少量生産、時に伝統的な工法にこだわったり、地元の素材など、大規模工業製品にはないこだわりを実現した製品を指すようになったように見受けられます。
そういう意味では、巨大食品産業代表格のビール大手発、まして「一番搾り」「本麒麟」に次ぐ3本目の柱という戦略も聞こえてくることを考えると、ちょっと自己矛盾感なくもありませんが、そもそもクラフトという言葉が広く表現的に使われていることを考えればあくまで志としてのクラフトと理解しています。
■クラフトでなければ実現できないものとは
筆者個人がクラフトと聞いて思い出すのは非常に個人的な心象風景です。ある時期友人の住む街に何かとかこつけては通ったある焼肉店のオヤジの顔。あえて親愛の情を込めてオヤジと呼ばせていただくのですが、木や石など本格的素材で彩られ薄暗い照明で演出された高級感のあるその焼肉店の真ん中にドカッといつも陣取り、なぜか鬼のような形相とスマートとは言えない体格の迫力は印象的なものだったのです。
会話らしい会話をする機会は恐ろし過ぎてまったくなかったのですが、どうも様子を伺うにいつもホールの真ん中にいますから調理人というわけではなさそうです。かと言って自分が給士したり会計するというわけでもありません。そう彼はまさにオーケストラの指揮者のようにホール全体を見渡し、彼のスタッフに合図を送り、すべてが完璧につつがなく運ぶようにまさにタクトを振っていたのでした。
きっとオーナーだか店長だとは思われるのですが、それがまったく権威主義的な圧力感の負のオーラはまったくないのです。ただ一心不乱に鬼気迫る形相で物静かにすべてを司る気迫、まさに彼の目配りがその店の完璧な料理、サービスを実現しているのだと理解してからは、一見したところの恐ろしさより圧倒的な親愛の情を禁じ得なくなりました。