オリンピックはそのパターンの王者バージョンなのかもしれません。圧倒的に高い理念と理想を掲げ、人々の期待感も高すぎるほど高いがゆえ、それを裏切る一切の発言や行為がその分激しく断罪されるのです。先ほどの麻雀に例えるならば、普通であれば気にも留められないような安い手でも満貫、いや役満の振込になってしまうとでもいうのでしょうか。すさまじい「可燃性」という言い方もできるかもしれません。
■高い理念があってこその駆動力
逆に言えば、もちろんオリンピックはそれだけ素晴らしい評価と期待感をもたれるほど優れたイベントであり、最高のブランド力ある大会だったということの証左でもあります。この大会の輝かしさについては、今まさに多くのアスリート渾身の演技や、死力を尽くした試合を目撃した我々は確信をもって証言できるに違いありません。
「国や人種を問わないスポーツの祭典」という誰もが共感、尊重する他ない圧倒的なコンセプトの力は、1896年の第一回五輪となったアテネ大会以来歴史的な積み重ねを含めて唯一無二のステータスと説得力を確立してきました。振り返れば戦争での中止やテロ、ボイコットなど平坦な歴史ではなかったわけですから、今回の東京大会の厳しかった部分も五輪の歴史を鍛える要素として消化されていくのかもしれません。そして、そんな困難を乗り越える上でも、何より理念の正しさとパワーは力になるに違いないのです。
もちろん五輪マークや聖火などその理念を可視化した文字通りアイコニックな表現手法も秀逸極まるものではありますが、上位概念である理念の確かさ、志の高さこそがそれに伴うすべてのアウトプットレベルを規定する良き事例でもあろうかと感じます。【関連記事:「世界遺産」 ブランドを授ける者のブランド力】
近年、ブランディングもさることながら、企業経営の視点でも理念や企業の存立理由「パーポス」を定義、確認することの重要性が認識されていますが、まさにオリンピックの良き部分からは正しき「パーポス」その駆動力のパワーを教えられる気がします。実はそんな感慨は、今回男子サッカーチームのたくましき成長の姿からも、背景として1996年「Jリーグ百年構想」で市民参加や地域社会へのサッカー文化の浸透のビッグピクチャーを描いた日本のサッカー関係者の歴史的取り組みがあったことを思い出させてもくれました。