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【軍事情勢】空から降った「人の雨」 雫石とウクライナ

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【軍事情勢】空から降った「人の雨」 雫石とウクライナ

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航空自衛隊訓練機に空中衝突し、墜落した全日空機の残骸。現場の凄惨さはまさに「戦場」そのものだった=1971年7月31日、岩手県雫石町  「空から人の雨が降ってきた」

 英デーリー・エクスプレス紙が報じた、7月17日発生のウクライナ東部におけるマレーシア航空機ボーイング777撃墜の目撃者証言。昭和46(1971)年7月30日と同じだ、と思った。この日午後2時過ぎ、北海道・千歳を離れ東京・羽田を目指していた全日空ボーイング727が、航空自衛隊訓練機に岩手県雫石町上空で追突した。追突されたはずの自衛隊機の《一方的過失》をメディアが創り出し、刑事裁判も3次元空間を理解できないなど、問題をはらんだ大惨事を取材したとき、似たような目撃証言を聴いたのだ。

 空自機に全日空機が追突

 「天から人が降ってきた」

 といっても、リアルタイムの取材ではなく、事故を検証した産経新聞の大型長期連載《戦後史開封》を執筆するためだった。取材ノートの表紙には《平成7年9月13日~》とある。

 陸上自衛隊第二十二普通科連隊第一中隊長・S一尉以下130人は当日夜、宮城県多賀城市の駐屯地を出発し、雫石に翌日未明に到着。他の中隊とともに乗客・乗員の遺体収容に向け、山中に分け入った。S一尉らが見たのは「戦場」だった。

 隊員は早々に金縛りに遭う。木という木に、おびただしい数のストッキングや下着、衣類、着物の帯が引っ掛かっていた。S一尉は回想した。

 「不謹慎だが、夏に見慣れた仙台の七夕まつりの短冊のようだった」

 オランダ発マレーシア行きのマレーシア航空機は高度1万メートルでミサイル攻撃を受け乗員・乗客298人全員が死亡した。現地からの写真には、ねじ曲げられた痛ましいご遺体が写る。

 上空8500メートルで衝突した雫石事故も、全日空機に乗っていた全乗員・乗客162人のご遺体は悲惨だった。若い隊員たちは茫然自失、大きな輪になったまま動けなくなった。輪の中心には「かろうじて人間の姿を彷彿させる肉塊があった」。

 《戦後史開封》は後にハードカバーと文庫本で出版されたが、原文(新聞紙上)も含め掲載できたのは取材した内容の「ほんの一部」。マレーシア航空機撃墜を受け、未公開部分のさらに「ほんの一部」を小欄に記しておくべきだと考えた。航空機事故、とりわけ空中でのそれは残酷の極み。「ほんの一部」しか書けないのは、紙幅に限りがあるだけではない。余りの残酷さ故に書けないのだ。

 凄惨極めた遺体収容

 動けなくなった若い隊員に活を入れたのはベテランの下士官(二曹)だった。

 「バカやろーッ。何やってるんだお前たち!」

 われに返った隊員たちに木を切ってこさせ、応急の担架をこしらえた。木には既述した着物の帯などの他、乗客も引っ掛かっていた。しかも、身長が2メートルにも伸びて…。

 年配者には、大日本帝國陸軍出身者もまだいて、実戦経験のない自衛官とは対応の仕方が違った。大きなポリ袋もなく「人の体の一部を戦闘服のポケットに入れていた」という。全ては「早く仏様を奇麗にして遺族に返したい」思いから。自衛官の優しさは、がれきの下にご遺体があると信じ、野外では尿意とも「戦った」東日本大震災(2011年)で出動した自衛官に、DNAとして受け継がれる。マレーシア航空機撃墜後、遺体を長い間放置し平然としていた親露派民兵は見倣うが良い。

 雫石では33度超の猛暑との「戦い」でもあった。中隊は、雫石町中心部の手前5キロの地点で車輌点検のため停車した。既にこの場所でにおった。同じ7月に起きたマレーシア航空機撃墜では、民兵がマスクをしていたが、雫石では大量のマスクを携行する余裕などなかった。

 中隊は事故前日まで雫石近くの訓練場で1週間、風呂も入らず泥だらけで猛訓練に明け暮れていた。事故当日は3分の2が代休を取り、久々の酒を楽しんでいる隊員が多かった。携帯電話はなく、ポケットベルもほとんど流通していなかった時代。連隊では、繁華街に街宣車も投入、スピーカーで非常呼集=帰隊を呼び掛けた。

 訓練疲れに暑さ、一部は寝不足や二日酔いも加わり、鍛え上げた隊員たちを悩ませた。昼飯。斯くなる劣悪の環境下では本来、あっさりとして塩分の効いた赤飯が最適。だが、まさか赤飯を出すわけにもいかぬ。缶詰を開けるとトリ飯だった。周りのにおいと一体となり、ベテランの陸曹(下士官)のみ黙々と食べた。前後して、貧血や脱水症状が始まる。若い隊員は乾パンに塩を振り、無理やり口に詰め込んだ。水を補充したくても、川の水は血のにおいがした。少なくともそう感じた。

 「162人の命の重み」

 現場には、土産の縫いぐるみのクマや菓子、指輪や財布が散乱していた。マレーシア航空機撃墜でも焼け焦げた機体の破片のそばにスーツケースや免税店の土産品袋はじめ、オランダの絵本キャラクター・ミッフィーのグッズが落ちていた。雫石とマレーシア航空機撃墜で共通するのはそうした所持品の間に、服を着ていないご遺体が横たわる悲しい光景。S一尉は途切れ途切れに言葉をつないだ。

 「最初に発見したご遺体はマニキュアをしていた。毛布をそっとかけた。後で聞くとスチュワーデスだった。最後は子供。非常呼集で自宅を出る際、テレビで事故を見ていて『死なないで、死なないで』と必死にまとわり付いた6歳の娘と3歳の息子を思い出した」

 帰隊すると、数日後に始まる七夕まつりへの民生協力に向け、留守を守る隊員たちが祭りに使うぼんぼりを作っていた。「現場の地獄絵図との余りの落差」に、S一尉はあらためて「命」の尊さを知った。

 訓練生は無罪となったが、先導した教官機のK一尉は《見張義務違反》を認定され1983年、最高裁判所より執行猶予付き有罪判決を受けた。クリーニング取次・靴修理店を営んでいたK氏が95年、筆者に重い口を開いた。追突された言い分は多々あったろう。が、弁解は皆無に近かった。ただ、55歳の手が小刻みに震えていた。居酒屋に誘い、呑みながら取材を続けると震えは収まった。自己の正当性を信じながらも「162人の命の重み」(K氏)が、手を震わせるのだった。

 K氏は2005年に亡くなったと聞いている。(政治部専門委員 野口裕之)

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