実業界は第一次ベンチャーブームにして脱サラブーム到来に湧いていた。いざなぎ景気末期で雇用環境に陰りが見える中、ニクソンショックによる過剰流動性のもとで多くのベンチャーキャピタルが立ち上げられ、資金調達は比較的容易だったからだ。ぴあ(1970)、モスフードサービス(72年)、コナミ(73年)、コナカ(73年)など、現在に続くメジャー企業がいくつも産声を上げ、喫茶店や飲食店などスモールビジネスの起業に踏み切る脱サラ組も多かった。
第一次オイルショック(1973年)によるリセッションを前にしたわずかなひととき、木村のような脱サラ者は次々に暖簾を掲げる。たとえば、1967年、両国に1号店をオープンしたチェーン『札幌ラーメン どさん子』。木村が屋台を引き始めた1971年の時点では、北海道にも逆上陸して500店舗を突破。1977年には何と1000店舗の大台にまで至ったほどだ。
折しも、国内初のセントラルキッチンを導入したロイヤルが先導し、ファミリーレストランやファストフードのチェーンが続々開店。「外食産業元年」とも呼ばれる1970年から、外食シーンは「単純化・マニュアル化・システム化」の波が席巻していた。職人や板前が先導する「見て学ぶ」「技を盗む」暗黙知のギルド社会が隘路に差しかかった時代だ。
機を見るに敏な木村もセントラルキッチンを柔軟に取り入れ、フランチャイズ展開へ踏み切った。食材の納入から調理まで一括して行い、冷蔵・冷凍で各店舗へと運ぶ。店舗キッチンでは解凍や仕上げのみを行うのがセントラルキッチンシステムだ。しかし、スープ製法の秘密を把握するのは製造、管理を担う本社工場の責任者数人のみ。
「最初はFCはするつもりなかったんです。自分とこで出来る範囲でええと。ところが、いろんな人が教えてくれ、教えてくれきはりますのや。わし、断り切れんかった」(「夕刊フジ特捜班「追跡」ラーメン立志伝-- 丼に賭けた男たち(2)」より)
と語るように、ドライなだけではなく人情肌の一面も隠さない。屋台から無手勝流で起業、己のスープで一本独鈷の勝負。鮮やかなブレイクスルーを果たしたのが『天下一品』木村勉だ。暖簾分けからフランチャイズへ、商いからビジネスへ--時代の変化に先鞭をつけつつ、唯一無二の一杯として広く、濃く愛される。その魅力は、レードルからどろりと垂れる、あのこってりスープのように奥深い。
【ラーメンとニッポン経済】ラーメンエディターの佐々木正孝氏が、いまや国民食ともいえる「ラーメン」を通して、戦後日本経済の歩みを振り返ります。更新は原則、隔週金曜日です。アーカイブはこちら