しかし感染症専門医の忽那賢志氏が指摘するように、新型コロナを受け入れ可能な人的・医療的リソースをそなえた民間病院は、東京都に関してはキャパシティーいっぱいだったとの指摘がある。
今新型コロナ患者を診ていない民間の医療機関は、感染症専門医もいなければ感染対策の専門家もいない、という施設が多く、こうした民間の医療機関に何のバックアップもないままに「コロナの患者を診ろ」と強制しベッドだけ確保したとしても、適切な治療は行われず、病院内クラスターが発生して患者を増やしてしまう事になりかねません。(忽那氏「医療が逼迫しているのは民間病院のせいなのか?」より)
感染症対応できる人材が、そこから半年たらずで急増できると考えることは、専門性をあまりに軽くみることになる。また、(政権批判的な趣旨が強いが)二木立(にき・りゅう)氏は、この忽那氏の指摘を参照しつつ、日本の病床が実は比較されている欧米に比べて多くはないこと、また東京都の民間病院の“健闘”を以下のように評価している。
入院しているコロナ患者2,784人のうち民間病院に入院している患者の割合は38.4%であり、これは都立・公社・公立の33.9%を上回り、経営主体別の第1位でした。他面、民間病院は中小病院が多いため、コロナ患者を受け入れている病院の割合は21.9%に止まり、80-90%台の国公立・公的とは大きな差がありました。(二木氏「1月前半に突発した(民間)病院バッシング報道をどう読み、どう対応するか?」より)
要するに、竹中氏の主張には現実的な根拠が脆弱(ぜいじゃく)だということだ。「病院ムラ」に責任を押し付けても、社会的な怨嗟以外なにも生まれない。
他方で、竹中氏のようなショック療法的な手法を採らない、日本の医療経済学者たちの主張には聞くべきものが多い。たとえば、一橋大学の高久玲音准教授は、論説「中小民間病院への高い依存と患者分散が医療逼迫を引き起こした」の中で、イギリスなど諸外国は平時から医療機能が大規模病院に集約されて運用されていたが、他方で日本では「5床ずつコロナ患者を診る病院が100ある場合」のような分散型であり、この医療支援体制の違い(集約型か分散型か)をみずに、単に確保病床数にのみ行政が目を向けていた可能性を示唆している。
つまり人口1人当たりの病床数の多寡に注目しても実りある議論にはならない。そして分散型には、忽那氏や高久氏らが指摘しているように、医療機関の連携の面でミスマッチが生じやすく、そのため急性期病院と療養病院など後方支援病院に目詰まりが起き、自宅療養中に重症化し、亡くなってしまうケースも起きうる。この分散型のミスマッチを解消し、あるいは「野戦病院」構想など集約型の対応を行うことも、「医療ムラ」をやり玉にあげて解決できる問題だとは到底思えない。
【田中秀臣の超経済学】は経済学者・田中秀臣氏が経済の話題を面白く、分かりやすく伝える連載です。アーカイブはこちら