ある男の刺殺体をめぐり、盗人の多襄丸(たじょうまる)、男の妻、巫女(みこ)の口を借りて語る男の霊の三つの証言が完全に食い違う-。芥川龍之介の小説「藪の中」は複数の異なった視点から同一事象を描く。実は安倍晋三政権最大の課題、拉致問題を巡る日朝交渉の実態をほうふつさせる。
ボタン掛け違いでスタート
昨年5月、スウェーデンのストックホルムで開かれた日朝外務省局長級協議。その際、合意した文書には拉致問題について「再調査する」との明確な文言はなかった。
代わりにあったのが「全ての日本人に関する調査を包括的かつ全面的に実施する」。日本側はこれを「再調査」と受け止めた。一方で、北朝鮮は日本政府認定の未帰国拉致被害者12人について、金正日総書記による「8人死亡・4人未入国」の判断を尊重したまま、日本人配偶者・遺骨問題の調査にすり替えることが可能となった。合意文書にはこのような曖昧な表現があるため、政府内では当初から再調査の実効性に疑問符を付ける高官もいたが、外務省が押し切った。