【アートクルーズ】
「富国強兵」を目指した明治政府は、西洋に追いつけ、追い越せとばかり、近代化を進めた。「美術」もその例外ではなく、輸出工芸品の推奨や、西洋画法を導入した「日本画」教育、国威発揚への利用に血道を上げた。ボストン美術館と東京芸術大学大学美術館の収蔵品を比較展示する「ダブル・インパクト 明治ニッポンの美」(東京・東京芸術大学大学美術館)を見ると、その性急さ、特異性が手に取るように分かる。
そもそも「美術」という言葉(概念)は江戸時代までなかった。1873(明治6)年、ウィーン万博に参加する際、政府が使った訳語が最初だといわれる。
ところが、ウィーン万博では伝統工芸が高く評価され、ヨーロッパでのジャポニスム(日本趣味)のブームや、アールヌーボーの流行につながっていった。これに味を占めた明治政府は、工芸を“輸出産業”と位置づけて推奨する。
76年にアメリカのフィラデルフィアで独立100年記念の万博が開かれると、アメリカ(西洋)人が好みそうなエキゾチックな題材で、日本のものより大型の陶磁器や蒔絵、金工を多数出品。狙いは的中して売れた。