【BOOKWARE】
雨情の詩歌と人生を見ていると、ときに胸がしめつけられる。心はやたらに澄んでいるし、とことん「一人ぽっち」や「可哀想なこと」に与するようなところをもっていたぶん、かなり「いいかげん」な男だったろうなという気がする。しかし、その加減のなかで心の髄まで「負け組」が大好きな男だったのだ。
茨城の磯原町で廻船問屋をしていた素封家の長男に生まれた。だから潮来を取材した『船頭小唄』は故郷にちなむ哀切の歌だった。一応は東京専門学校(その後の早稲田大学)に入って坪内逍遥に師事したが、1年あまりで退学して食えない詩人をめざした。でも詩人らしくなったのは36歳をすぎてからだ。
明治37(1904)年に父親が事業に失敗したので、故郷に戻って家督を継ぐのだが、そんなことをやれる甲斐性があるはずはない。樺太に渡り、なんとか一獲千金を夢見るのだけれど、芸者に金を持ち逃げされ、あげくは大量のリンゴ貨車1両ぶんを東京に送って生活費に充てようとするのだが、みんな腐ってしまった。やむなく小樽で新聞記者の真似事をした。このとき石川啄木に出会った。
こんなわけだから本気でデビューしたのは大正8(1919)年以降のことで、斎藤左次郎の「金の船」や鈴木三重吉の「赤い鳥」に童謡を書くようになってからである。すぐに作曲家の中山晋平や本居長世たちと組んだ。晩生(おくて)だったが、ところがここからがすばらしい。持ち前の「可哀想」がみごとな詞になった。