中国を牽引したロケット王、銭学森
1950年代以降、米ソ間で激しい宇宙開発競争が繰り広げられましたが、その中心的役割を果たしたのが、ドイツから米国へ亡命したヴェルナー・フォン・ブラウンと、旧ソ連のセルゲイ・コロリョフという、ふたりのロケット開発者でした。同時期、中国にもやはり天才技術者が存在し、毛沢東に「ロケット王」と呼ばれた銭学森(せん・がくりん)は、1950年代から中国の宇宙開発を主導しました。
1930年代にマサチューセッツ工科大学に学び、その後、カリフォルニア工科大学で博士号を取得した銭学森は、1936年、現在ではNASAの中核組織として知られるJPL(ジェット推進研究所)を、仲間とともに同大学内に創設。その後、米国初の弾道ミサイルの基礎開発に従事し、原爆開発に成功した「マンハッタン計画」にも参加。終戦を迎えた1945年のドイツで、米軍に投降したフォン・ブラウンを最初に尋問したのも銭でした。
その後、朝鮮戦争(1950~53年)で拘束された米国人捕虜と引き換えに、中国への帰国を許された銭は、中国初の本格的国産ロケット「長征1号」の開発に着手します。このロケットよって1970年、中国初の人工衛星「東方紅1号」の打ち上げに成功。今回の宇宙ステーション「天宮」の打ち上げに使用された「長征5号B」も、この銭学森の思想を受け継ぎ、発展させたロケットなのです。
世界から排除され、独自路線を突っ走る
1990年代に米ソ冷戦が終わると、米国とロシアは膨大な予算を必要とする宇宙開発において協調路線をとり始めます。当時、軌道上に唯一あったソ連の宇宙ステーション「ミール」を、スペースシャトルが支援する「シャトル・ミール計画」(1994年)は、その中核となるプロジェクトであり、ソ連崩壊直後で財政難に苦しむロシアは、シャトルによる人員や物資の輸送支援を受け、一方米国は、クルーの長期滞在やステーション運営に関するノウハウをロシアから学びました。この両国による協調体制が後年、その他13ヵ国が加盟する国際宇宙ステーション計画(1998年建設開始)へとつながるのです。
中国もISS計画への参加を米国に打診しましたが、中国参加に反対する加盟国があったため、米国がこれを却下。そのため中国は、劇的に発展しつつある経済力を源として独自開発路線を突き進みます。その結果、2003年には独自に有人宇宙飛行を成功させ、2011年には中国初の宇宙ステーションを打ち上げ、2020年9月には中国版スペースシャトル(再使用型宇宙船)の無人テスト打ち上げにも成功したと報道されています。
そして今回、大型宇宙ステーションの建設を開始した中国。有人宇宙探査におけるこうした中国の急速な開発は、1950年以降の米ソに匹敵し、両国を追随するものとして、いま世界から注視され、畏怖されています。