その後、1961年には「時差通勤通学対策」が東京で導入。1964年になると、佐藤栄作首相が、新宿駅で満員電車に入りきれない乗客を押し込むバイト職員「シリ押し」(現在のプッシャーマン)を視察して絶句。このように憤ったという。
「だからワシがいつも言っているように社会総合計画がないんだよ」(朝日新聞 1964年11月26日)
こうして「通勤地獄」は国を挙げて解決すべき「社会課題」となり、翌65年には国鉄労働科学研究所が「ラッシュと疲労度」という調査を実施。満員電車に乗ると体は動かないのに、脈拍が急上昇するなんてショッキングな結果とともに、とにかく長生きをしたければ時差出勤をせよ、と触れ回ったのである。
しかし、その効果はほとんどなかった。というよりも、事態がさらに悪化していった。
60年代後半から70年代にかけて、国鉄をはじめ私鉄でもストライキが多発するのだが、交通機関が動かないなかでも、「男は黙って定時出勤」(朝日新聞 1971年5月18日)なんて感じで、あの手この手で始業時間までに席に着いているのが、「サラリーマンの鏡」みたいな風潮が生まれてしまったのである。
そのなかでも特に高い出勤率を誇ったのが、いわゆる大企業。そしてそこの幹部社員たちである。当時の『朝日新聞』ではトヨタ、ソニーなど大企業の幹部社員を一覧にした「それでも行く管理職」というコーナーで、「出社方法」や「欠勤者の扱い」を紹介している。