学生起業家の草分けで、「おもしろおかしく」というユニークな社是を掲げた堀場製作所の創業者。社員に対しては「仕事が楽しくない社員は会社を辞めてくれ」と繰り返し語り、「会社のためにがんばる」や「お疲れさま」という言葉も嫌った。今ならパワハラと思われるような態度かもしれないが、そこには「創意工夫をしておもしろく仕事をした人には、それだけの恩恵を神様が与えてくれる」という信念が込められていた。
堀場氏の人生は決して、順風ばかりではなかった。
終戦後、京都帝国大(現京都大)に戻り、昭和20年10月に「堀場無線研究所」を設立。核物理実験用の高速演算機に必要なコンデンサーを自作するため、3日3晩、一睡もせずに動作を凝視し続けた。食糧難で「飢えの恐怖」と戦いながらの開発だったという。
苦労して生み出したコンデンサーの性能は良く、量産化のめども付けた。しかし、朝鮮戦争による資材高騰で工場建設を断念。多額の借金を抱えた。自作の酸性値などを測るpHメーターが復興需要に乗って売れなければ、事業継続そのものも危うかった。