因縁のJRとも結束 ライバル各社との繋がり大切にする東武鉄道 今も生きる初代の思い

 
東武鉄道のスペーシア

 《「つながり」の力はビジネスでも、実社会で生きる上でも大事だとよくいわれる。その意味では、東武鉄道ほど「つながり」を大切にする鉄道会社は、なかなかないのではないだろうか。このつながりが、東武の弱点を克服するだけではなく、多くの利用者にも恩恵をもたらしている。[小林拓矢,ITmedia]》

 東武鉄道のターミナルといえば、伊勢崎線……最近では、スカイツリーラインと呼ぶことも多い浅草駅と、東上線の池袋駅である。

 浅草駅は、ターミナルとしてはちょっと弱い、と思えるところがある。駅自体が狭く、長い編成の列車が、入れないようになっている。普段は、6両編成の普通列車と、やはり6両編成の特急列車を中心に使用されている。なお、朝の時間帯には区間急行もある。

 北千住方面からやってきた6両の普通列車が、およそ10分に1本程度入線する。このほかに、特急がやってくる。もちろんそれだけで、旺盛な需要をさばいているわけではない。

 関東私鉄最長の複々線

 北千住から北越谷までの間には、JR以外の私鉄では最長距離の複々線がある。この複々線を走行する列車をみると、普通列車の緩行線は東京メトロ日比谷線、区間準急以上の急行線は東京メトロ半蔵門線が、それぞれ走っている。つまり、都心からやってくる人たちを、途中から合流させているといえる。もしくは、運びきれない伊勢崎線沿線の住民を、東京メトロに協力してもらって、都心に送り込んでいるとも考えられる。他社の力を借りて、通勤輸送の円滑化に力を入れているのだ。

 北千住から、という複々線の区間設定に、何か感じるものはないだろうか。それは、都市交通の全体性を考えて、自社で運ぶ利益を削ってでも人々を都心に送り込むという、目的を果たそうとすることだ。

 東京メトロ半蔵門線と東武伊勢崎線の直通運転が始まったのは、2003年と意外と最近のことである。それまでは、現在はとうきょうスカイツリーと名前を変えてしまった業平橋まで10両編成の列車が使用され、乗客はそこで降りて押上まで歩いてもらっていた。ただ、半蔵門線との直通運転の開始によって、現在は直通の便が走っている。

 さまざまな方向から直通してくる列車を伊勢崎線にまとめ上げるために、複々線は大きな役割を果たしている。なお、半蔵門線は、東急田園都市線に直通している。

 東上線の短い複々線は?

 乗客の多い東武の路線をみると、東武東上線がある。池袋から寄居へ向かう路線だ。この路線には、和光市から志木までの短い区間に、複々線が設定されている。

 東上線には、副都心線や有楽町線に乗り入れる列車がある。有楽町線との相互直通運転開始のときに、複々線にしたのだ。副都心線からは、さらに東急東横線に乗り入れる。

 やはり東上線も、沿線が住宅地として発展してきたため、多くの人が利用するようになった。ところが、東上線だけではさばけない。そこで、和光市から地下鉄に入り、都心を目指すようにした。なお和光市には、東京メトロの和光検車区がある。

 和光市から、という短い区間の複々線は、東京メトロとの協力関係の存在がなければありえない。

 なお、東京23区の隅っこにある成増からは、東上線沿線から都心に向かう乗客をさばくために普通列車が運行されている。もし地下鉄がなく、東上線沿線の乗客を東上線だけでさばく……と考えると恐ろしいものがある。

 このように、東武鉄道は「ネットワーク」を大切にする会社なのだ。

 JRなどとの協調

 このほかにも、東武鉄道がネットワークを大切にしている会社だと思える事例がある。東武日光や鬼怒川温泉へ向かう特急は、基本的には浅草から出発する。しかし、JR東日本の新宿駅を出発し、栗橋駅で東武日光線に乗り入れ、東武日光や鬼怒川温泉へ向かう列車もあるのだ。

 国鉄時代、都心から日光へ向かう列車は東武とはライバル関係だった。たがいに豪華な車両を投入し、東武がデラックスロマンスカー1720系を投入したことで勝負は決したかに見えた。

 だが、東武が東京西側からの集客を増やしたいと思う一方で、JR東日本も観光地、日光への輸送需要に応えたい。日光線では、宇都宮で方向転換する必要がある。この両者の思惑が合致し、東武とJRは長年の因縁を乗り越え、手を結んだ。そうして生まれたのが「日光」と「スペーシアきぬがわ」の特急列車である。

 また、東武鉄道はJR5社や秩父鉄道、真岡鐵道、大井川鐵道からの協力を得て、SL復活プロジェクトも行っている。これも、「つながり」の鉄道会社である東武らしい事業である。

 いまに生きる根津嘉一郎の精神

 東武の礎を築いた初代根津嘉一郎は、阪急電鉄の小林一三や東京地下鉄道の早川徳次と並ぶ、山梨県出身の鉄道経営者として知られている。根津は、多くの鉄道会社の経営に関わり、「鉄道王」と呼ばれた。主なものを挙げても、東京地下鉄道や南海鉄道などがある。南朝鮮鉄道の経営にも参加していた。

 一方で、根津は「社会から得た利益は社会に還元する義務がある」というポリシーを持っていた。そのために、教育に力を入れていた。旧制の武蔵高等学校を造ったのも、根津である。この学校は、現在の武蔵中学校・高等学校、武蔵大学へと発展している。

 これらの学校は、東武沿線ではなく、武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)沿線につくられた。根津は武蔵野鉄道の株式を持っていたのかもしれないが、自社の沿線ではなく他社の沿線に造ったことはいまから考えると意外である。武蔵中学校・高等学校は独自の教育方針で知られ、多くの難関大学合格者を輩出している。その卒業生は、さまざまな世界で活躍している。

 また、ふるさと山梨県の学校にも寄付を行った。山梨市の万力公園には、根津嘉一郎の銅像がある。根津は、郷土の偉人でもあるのだ。

 根津嘉一郎が作り出したネットワーク型の思考が、いまの東武にも生き、多くの利用者がその恩恵を受けている。

 囲い込むだけがビジネスではない。多くの人と手をたずさえて、事業を成し遂げることがいまの時代にも求められている。その意味で、狭い範囲内でものを考えがちな私たちが、東武に学ぶことは多いのではないだろうか。