サーシャは1984年生まれのウクライナ人だ。現在、彼はミラノのベンチャーキャピタルで、スタートアップ企業の支援をしている。スタートアップのエコシステムを作ることに情熱を傾け、「ビジネスアナリストというより、クリエイターであると自覚している」と話す。
これが彼を本連載でとりあげる理由だ。
ぼくが最初にサーシャに出会ったのは、毎月最終金曜日の朝、クリエイターを招いて話を聞くコミュニティがあり、彼がその世話役をやっていたからだ。いまどきのクリエイターの風貌で、英語もイタリア語も流暢にしゃべる。が、イタリア人でないのは明らかなので、欧州のどこか東か北の方の出身かなと想像していたらウクライナだった。
彼が2歳の時、チェルノブイリ原発の事故が彼の住む場所から80キロ先でおこった。その後、チェルノブイリの子どもたちは夏休み、外国で保養することが多かった。サーシャは12歳の時、2カ月間、ナポリ近くの人口数千人の町に滞在することになった。
ホストファミリーはイタリア語以外話さない。イタリア語を話せない彼は、全てジェスチャーで意思を伝えるしかない。ウクライナに戻った後、たまに電話で交信することはあったというから、サーシャは僅か2カ月間でイタリア語を少し話せるようになったのだろう。
大学卒業後、ウクライナの金融機関に勤めていた。2004年大統領選挙の結果に対する不満から生じたオレンジ革命で政情は不安定となり、そこに2006年から金融危機が忍び寄るのを感じとった彼は徐々に嫌気がさし、国外に移ることを考えるようになる。将来、仮に子どもをもったとき、表現の自由がない国で育てることに、自分が満足できるだろうかと思ったのだ。
そこで脱出先の候補にあげたのが3カ国。距離的に近いので頻繁に祖国に戻れるポーランド、ウクライナ人が多く多文化社会となっているカナダ、そして馴染みのあるイタリアだ。結局、文化的な質の高さからイタリアを選び、ミラノ大学で言語と経済学を学んだ。在学中、交換留学制度でマドリッドの大学でも勉強した。
そうして1年のロンドン滞在を経てミラノでキャリアを再開したのだ。