2020年3月、東京・新橋で75年続いた居酒屋が閉店した。『蛇の新』2代目店主、山田幸一さんは「失われた30年でこの街は大きく変わった」という。街にどんな変化があったのか。ノンフィクションライターの石戸諭さんが描く-。
■75年の歴史に幕を下ろした新橋の居酒屋
ここはJR新橋駅である。周辺も含めてビジネスパーソンたちの憩いの場としても知られた街だ。私たちが新橋と呼んでいる駅は、開業当初は「烏森駅(からすもりえき)」」と呼ばれていた。誰が、いつ、そう命名したかというのは、はっきりとわかっていないらしい。
新橋の一角にひっそりと佇たたずむ、烏森神社によれば、かつての江戸湾の砂浜で、一帯には松林が広がり、「枯州(かれす)の森」あるいは「空州(からす)の森」と言われていた。この松林には、烏が多く集まって巣をかけていたため、後には「烏の森」とも呼ばれるようになったという。
いまは「森」の代わりにビルが林立し、「烏」の代わりに働く人々が街を闊歩し、夜になれば軒を連ねる飲み屋に足を運ぶ。1946年から彼(か)の地に75年続いた店が、その歴史に幕を閉じた。名前を「蛇(じゃ)の新(しん)」という。
2020年3月27日--。暖簾(のれん)を掲げる最後の日も、店主・山田幸一はいつもと変わらぬ仕込みを始めていた。
カウンターの一角に目をやると、ザルがある。アジに強めの塩を振り、ザルに並べて余分な水分を抜く。塩を水で洗い流し、酢で締める。こうして刺身の盛り合わせに並ぶ一品ができあがる。寿司屋ではあるが、居酒屋としても利用できるメニューが並ぶ店でもあり、会社帰りの客でにぎわう。
■「失われた30年」で起きた変化
彼は東京に生まれ、東京で育った。この街の変化も見続けてきた。会社員の街・新橋は平成で大きく変化したという。
「失われた平成の30年ですかね。一番、大きかったのは。先輩が後輩を連れてきて、後輩がまた来てくれるっていうサイクルがなくなったよ。ここの暖簾を守るだけで精いっぱいになってしまってね。元気なうちに、常連の皆さんにさようならが言いたかったんですよ。ずっとかわいがってもらって、ありがとうって」
生来、職人気質である幸一は、時々、へへへっと照れ隠しのような笑いを挟みながらぽつり、またぽつりと語った。彼が体感から語った、平成の変化はおそらくその通りである。
いまからほんの30余年前、平成が始まったばかりのころ、会社員の所得は増えるのが当たり前だった。1990年、会社員の平均給与は425万円、翌91年は446万円、92年は455万円(民間給与実態統計調査)と信じられない幅で伸びていく。
バブルが弾はじけ、長期不況が始まった時でも、すぐに下がることはなかった。ところが最新、2020年は433万円で止まっている。
幸一の言葉を聞きながら、私はある大学教授から教えてもらったエピソードを思い出していた。彼が教鞭をとるのは、東京の名門私立大学である。平成も終わろうというとき、就職活動を終えたゼミ生が言った。
「来年からサラリーマンです。新橋とかで酔っ払うことになるんだろうな」
おそらくゼミ生の頭にあったのは、週末の情報番組でカメラに向かって管を巻くサラリーマンの姿だ。それを聞いた、彼は冷たく言い放った。
「いまの時代、新橋で飲めるだけで結構な勝ち組だよ」
外から見れば勝ち組の街でも、冷たい風が吹く。私もまた、この停滞する時代しか知らない。私が知っているリアルは、所得が伸びなければ、人に構う余裕は生まれないということだ。
■戦後の新橋は闇市から始まった
戦後の新橋は未来を担う若者たちが集う街でもあった。「蛇の新」は、新橋に立ち並んだ戦後の闇市から始まった。先代鐘幸は、愛知・一宮市出身で、戦前に両親と死に別れ、単身で東京に出てきた。彼もまた未来を夢見た少年の一人だった。
先代は八丁堀にあった魚屋「蛇の新」で自立の一歩を踏み出した。この魚屋は、簡単な寿司も出していたらしく鐘幸はそこで修業を積み、今の日本橋髙島屋の周辺で屋台の寿司屋を開く。仕入れは「蛇の新」で、魚に付加価値をつけるべく寿司を握った。商売の才覚もあった先代は、結婚をして八丁堀に家も構えた。そこに生まれたのが幸一だった。
1945年3月10日の東京大空襲で家は焼けてしまったが、徴兵から帰ってきた鐘幸はまた商売を始める。新橋で露店を開いたのだ。転んでもただでは起きない男である。
終戦から間もなく、いまも駅前にあるニュー新橋ビルを経営する新橋商事がバラックを建てると宣言し、新橋周辺の整備計画に乗り出した。抽選で当たった露天商たちを集めて、商店が並ぶエリアを作るという。鐘幸も申し込んだが、外れてしまった。
ところが、隣にいた露天商が本業に戻るからと言って入居の権利を譲ってくれた。1946年、新生「蛇の新」が誕生する。
「3坪くらいの小さな店でしたよ。親父(おやじ)は何でも作っていましたね。寿司屋って言っても、お米が手に入らなかった時代ですからね」
■夢を語り合う希望の場
当時、NHKが内幸町にあり、近隣には東京新聞もあった。失明の危険性があるメチルアルコールを平然と出す店もある中、「蛇の新」ではまともな酒が飲めるという口コミが広がった。インフルエンサーになったのは、東京新聞で当時の人気小説家、富田常雄(代表作『姿三四郎』)を担当していた記者だった。
富田がやってくると、評判を聞きつけた太宰治や坂口安吾がやってきた。新聞小説で、挿絵を担当する画家たちもやってきた。当時の活況をエッセイストの矢口純が記した文章を、幸一が見せてくれた。何かの雑誌に書いたものらしい。
1948年、婦人画報社に入社したばかりの回想--「粗末な酒場に行くと、駆け出し記者の私にも一目でわかる著名な作家、画家、写真家、音楽家、ジャーナリストが、それこそ目白押しになって酒を飲んでいた。まことに壮観であった」。
この「粗末な酒場」こそが「蛇の新」で、写真家の土門拳、江戸川乱歩に吉行淳之介といった作家たちがなぜか同じ時間帯にいた夜を矢口は懐かしそうに書いている。画家たちのネットワークに連なって若き日の岡本太郎もやってきた。鐘幸は若い表現者たちに優しく、色紙を書いてもらう代わりに酒を一杯、ご馳走した。
店内に1952年11月6日に撮影したという写真と、「TARO」のサインが入った絵画が並んで飾られている。常連たちと一緒に納まっている岡本太郎と、彼がちょっと紙を貸してと言って、ささっと書いた「作品」だ。彼らにとって「蛇の新」は、夢を語り合う希望の場だった。
■右肩上がりの時代、人は大いに飲んだ
新橋駅前開発で、駅前にビルが建つことになり、仮店舗として現在の烏森神社沿いの店がオープンする。1968年、幸一が店の従業員として働いていた清子と結婚した年だ。清子は大阪・河内の商人の子供で、いまの羽曳野市で育った。
「商売は嫌じゃなかったね。カウンターでお客さんの話を聞くのも、私は好きだったよ」
清子は、最後の一日もいつもと同じように、幸一とは対照的に、大きな声で笑いながらカウンター越しにセイロで鶏シューマイを蒸し、フライパンで炒め物を仕上げていた。続々と訪れる客の応対も手馴れている。
「昔の思い出? ちょうど結婚したばかりのころかな、三島由紀夫が来てたね。私が『あの人、三島さんに似ているね』って言ってたら、本人だったの。お店に『三島先生はいらっしゃいますか』って電話来て、びっくりしちゃったよ」
店の並びには三島が常連だった料亭「末(すえ)げん」がある。そこに行く前に立ち寄ったのだろうか。店の歴史が、昭和史とリンクする。
「よく僕が思うのは」と、仕込み中の幸一が口を開く。
「新橋はある時まで霞が関城下町だったんです。国鉄と銀座線が通っていて、官庁がある虎ノ門から新橋まで来やすかったんですよ。官庁があれば、営業だなんだで、そこに民間の人たちも通うようになる」
人が集えば、オフィスができ、飲みに出る人々も増える。時代は右肩上がりである。彼らは大いに飲んだ。1980年代に入り、女性の社会進出が本格化すると女性をターゲットに「酎ハイ」が売り出され、「蛇の新」にも女性がやってくるようになった。
■かつての新橋に存在した「無根拠な希望」
閉店が近づいてきた、3月のある日、隣にいた常連客がこんな話をしてくれた。2016年に勤めていた印刷会社で60歳の定年を迎え、リタイア生活を謳歌しているという男性である。
新橋の思い出を聞くと、よくぞ聞いてくれたとばかりに滔々と語ってくれた。
「バブルの時代は、ここでお腹を満たしてから別の店に行ったんですよ。そこは旧大蔵省の官僚と、銀行の担当者が来る店です。彼らの言葉に耳をすますと景気動向がわかる。ここで先を見極めて、僕は株を買いましたね。新橋で景気良く飲んでいる会社の株は当たり株。結構、儲(もう)けさせてもらったな。あの感じ、わからないでしょう」
私はその話を苦笑まじりに聞くことしかできなかった。2011年の東日本大震災と福島第一原発事故、そして2020年を直撃したコロナ禍でも痛感したが、人が財布の紐を緩める時は、未来への希望がなんとなくでもある時だ。
そこに確かな根拠は必要ない。前の時代より、今の方が良くて、未来はさらに良くなる。無根拠な希望がそこにあるとき、人は大いに飲み、街に出て語り合う。
1995年の阪神大震災とオウム真理教事件、2008年のリーマン・ショック、2011年、そして2020年。賃金は上がらず、数年ごとに「歴史的な危機」が訪れる。その度に希望が見えなくなる時代には沈黙が蔓延(はびこ)っていく。
「誇りは『蛇の新』の暖簾を守ったということです。三代目に継がせることはできなかったけど、僕は守りました。あとは女房に感謝です。2人で喜びも悲しみも共有できた」
幸一がしみじみとそんな話をしていた、と清子に告げると、彼女はくるりと幸一の方を向き、「もっと感謝しろ」と腰に手を当てて胸を張った。
■もうこんな日々は戻ってこない
最後の日、親子2代で常連だったという客は、父親の遺影とともにやってきた。ある人は花束を持参し、ある人は夫婦と記念写真を撮った。
店が終わる午後11時を過ぎても、リタイア世代中心の常連たちは別れを惜しむように残っていた。そこに存在していたのは、タイムスリップしたかのような「昭和」だったのかもしれない。
彼らの笑い声を聞きながら思う。停滞の中で「昭和」への憧憬(しょうけい)だけが強まる時代を自分は生きていたなと。会計を済ませて、店を後にした。もうこんな日々は戻ってこない。
外は2020年--本来なら令和に元号が変わり、華々しく1964年以来のオリンピックが開催される予定だった年、コロナ禍の新橋の夜である。マスク姿の人々が家路を急ぐ。人通りは普段の半分もなく、会話もない。
SL広場には客引きの声だけが響き、酔客のコメントを取ろうとしていたテレビクルーはスマートフォンを眺めながら暇を持て余していた。(記者/ノンフィクションライター 石戸 諭)
石戸 諭(いしど・さとる)
記者/ノンフィクションライター
1984年、東京都生まれ。立命館大学卒業後、毎日新聞社に入社。2016年、BuzzFeed Japanに移籍。2018年に独立し、フリーランスのノンフィクションライターとして雑誌・ウェブ媒体に寄稿。2020年、「ニューズウィーク日本版」の特集「百田尚樹現象」にて第26回「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞」作品賞を受賞した。2021年、「『自粛警察』の正体」(「文藝春秋」)で、第1回PEP ジャーナリズム大賞を受賞。著書に『リスクと生きる、死者と生きる』(亜紀書房)、『ルポ 百田尚樹現象』(小学館)『ニュースの未来』(光文社)『視えない線を歩く』(講談社)がある。