「人と違う個性的な子どもに育てよう」ということが日本の大人の世界で盛んに言われる。そして大人になればなったで「出過ぎた杭は打たれないことを信条に生きろ」と言われる。要は「他人とどう違いを出すかに尽力しろ」と一生言われ続ける。
ミラノで生まれた息子を大学に通うまで育ててきた現在、そういえば、と思うことがある。日本で言われるほどに「個性的であれ!」と、学校であれ、どこであれ、周囲があまり圧力をかけていない。
こう話すと「イタリアは自由で、それぞれが好きに主張するからでしょうね」というコメントがありそうだ。それはそうなのだが、そもそも赤ん坊をどう見るかに大きな違いがあるように思える。
赤ん坊は生まれた瞬間から他の赤ん坊と違った存在なのだから、この違いをなるべく潰さないように育てていこうとする。だから他人と違うことが当たり前であるからこそ、それをどう守り抜くかが大きな課題になるのだ。
一方、日本での子育て、学校教育、企業研修などの議論を聞いていると、まるで赤ん坊は均一に生まれてきた前提で話しているのではないか?と思うことがある。皆さん、赤ん坊は各自違うということを百も承知しているはずなのに、幼少期に「あれはだめ、これはだめ」「これができないと学校で苦労する」「好き嫌いを言わないのが大人」という軍隊的訓練(!)を施すことで、結果的に均一に育ててしまう。
そして「あら!まずった」と振り返ることもなく、赤ん坊の時からどこの子も同じだったと親は子どもの過去を塗り替えていく。
ぼくは幼児教育の専門家ではない。その手の本を好き好んで読むタイプでもない。まったく自慢にならないが、自分の子どもを育てるに、そういうジャンルの本を殆ど読んでいない。
ただ、ミラノから東南およそ150キロのところにあるレッジョ・エミリア市で、半世紀前にはじまった幼児教育であるレッジョ・エミリア教育アプローチにおいて基調となる、「子どもにはすべてある」という考え方が、ぼくの上述の思い付きを支えている。
レッジョ・エミリア教育では、子どもはすべてをもっているのだから、これらをどう引き出していくかを主眼とするのである。子どもは未完成の存在で大人になるに従って完成するとの考え方をとらない。
ぼくの子育ての経験では、レッジョ・エミリア教育に限らず、現在のイタリアのなかで一般的に普及している子どもへの見方ではないかと思い至るのだ。
もともとこの見方がレッジョ・エミリア教育に影響を与えたのか、レッジョ・エミリア教育が他の地域の人々に影響を与えたのかぼくは知らないが、少なくても現在、ぼくの周囲の人たちの主流の見方なのではないかとの印象をもっている。
イタリアの人を称して「子どもがそのまま大人になったみたい」と評する日本の人がいるが、それは赤ん坊からの延長線上であることをひたすら維持した成果であると解釈できるだろう。
前世紀は、工業製品の量産を効率よく回すに品質トラブルをできるだけ抑え、歩留まりを良くすることが重視された。市場に均一の品質を提供することが何よりも優先された。工程のなかで人の手が入り、品質上のバラつきがでるのは劣等であると見なされる。
今世紀においても、大量に生産する工業製品においては同じ価値観が継続している。ただし、大量生産的な見方が本来適用すべきではない広い範囲にまで及んでいたとの反省が、この10数年、盛んにおこなわれる。それがこの数年の職人技の再評価にも繋がっている。
プロセスとしての評価だけでなく、質感においても人肌を感じるような存在の傍にいたいとの欲求にも関わる。
さて、子育てをこの議論と並べて良いのかどうか、確信がもてない。しかし、並べて論じたい誘惑があることを否定しない。例えば、一度、量産で作った均質的な製品を職人技で作り変えることが可能だろうか? という問いを発してみたい。物理的なプロセスとしてはあり得るかもしれない。ただ、その成果物は魅力的なものであろうか?
もし、「個性的であれ」を巡る数々の意見をこれになぞらえると、人の尊厳を何と心得ているのかという話になりかねない。心寒いから、文章は一旦、ここで止めておこう。
【ローカリゼーションマップ】はイタリア在住歴の長い安西洋之さんが提唱するローカリゼーションマップについて考察する連載コラムです。更新は原則金曜日(第2週は更新なし)。アーカイブはこちら。安西さんはSankeiBizで別のコラム【ミラノの創作系男子たち】も連載中です。