大人になったらファッションデザイナーになりたいと思っていた少年は、スケート競技に夢中だった。身体をアーティスティックに動かすことを22歳まで続け、ナショナルレベルの大会に出る実力だった。
「目指すべきものと、自分のできることの間に距離があることは、小さい時から常に意識していた。もちろん、目標レベルに近づけば、それが更に遠のくことも学んだけどね」
このようにペルージャ生まれのジャンニ・モレッティは語る。1978年生まれの彼には、子ども心にファッションシーンの象徴としてジョルジョ・アルマーニやロベルト・カプッチがいた。
しかし、彼はファッションデザイナーへの道へは進まず、アーティストを目指す。ボローニャ大学で美学や美術史を勉強し、途中から絵画の実技を学ぶために美術アカデミアにも並行して通いはじめ後者を卒業。その後、ミラノでアーティストとして活動している。
直近の展覧会で発表したのは、「サンタンナ・スタッツェーマのアンナ」に捧げる作品だ。
サンタンナ・スタッツェーマとはイタリアの中部・トスカーナ州にある小さな村だ。1944年8月12日、ナチスの兵士たちがやってきて、560人以上の一般市民を虐殺する事件があった。多くは女性や子どもだ。第二次世界大戦時の膨大な汚点の1つである。映画にもなっている。
アンナとは生後僅か20日の赤ん坊だ。殺された人々のなかで最年少だった。
ジャンニはおよそ2万7000本のキク科のカルドの花を模した、大きな釘のようなモノを用意した。花の部分が直径4センチの金色の鉄、長さ19センチの茎はアルミニウムだ。
人が殺された場所には、人の形をした花が咲くとのドイツの古い神話に倣ったのだ。これを1人1人が手に取って、サンタンナ・スタッツェーマの地に植え込むことでモニュメントとして作品は完成する。山の小道に金色の花が風景のなかで光る。
「2万7000本とは、アンナが今日まで生きられなかった日数だ」とジャンニは話す。
作品を観賞する人が、歴史の記憶を受け身ではなく、自分の人生のどこかに「関与するもの」として組み込んで欲しい、とジャンニは願っているのだ。
「ぼくは、陰や境界に存在することに興味がある。ほっぽっておくと忘却のかなたに消えてしまうことを、とどめておくためにどうすればいいかを考えている」
ぼんやりとした存在に輪郭を与え、それを明るみに出すことが最良の手段ではない。注目すべきことが多すぎる状況に人は堪えられるわけがない。他方、アンナのような立場に誰でもなりうる。人の運命は「たまたま」の連続だ。
最近、よく日本で見られる表現を使うならば、「解像度を高くしないで、あることを記憶の隅に(ポジティブに)そっとおいておく」のがジャンニのアプローチではないか。
こういう世界を追っているからといって、少年の頃に夢をもったファッションの世界に距離をもっているわけでもない。もしファッションハウスからデザインの依頼があれば受けるか?と尋ねると、「喜んで」と声を弾ませる。
彼はブレシアの美大で教壇に立っているが、学生たちにはファッションショーをみせるようにしている。アートと扱う表現言語は違うが、時代の考え方を解釈するに絶好の機会であると考えている。
ただ、時と共に社会におけるファッションの位置は変わった。かつて服は長い人生に意味を与えることがあった。だが、今はそこまで1つの服が長い期間、人生に価値を持ち続けることはない。それでもファッションを見続ける意義はある、とジャンニは信じている。
スケートに熱心だったようにスポーツは好きだ。身体を動かすのは好きなのだ。しかし、ジムのメンバーだが、殆ど行くことができない。仕事が忙しすぎる。
かといって、仕事の忙しさで余暇を犠牲にしているとも言い難い。
この8年間、夏のバカンスに出かけたことはない。海や山で何週間か過ごすような時の過ごし方をしない。今年の夏もベルリンで作品を作っていた。
「砂浜でぼんやりするのが好きではない。山なんて特に気がめいる。ペルージャの実家に戻ってダラダラとするのはいいけど」と笑う。たまに怠惰になると聞いて、ぼくは安心した。
最後は、彼の仕事への姿勢で締めくくろう。
「自分の思索がどこに行きつくのかは分からない。それは一見するとリスクだ。だが、そのリスクがないと探索にはならない。リスクがないと思えたとしたら、それは既にあるものがどこかにあると思えるからだ。それでは前に進めない、あるいは意味がない」
前に進むことに意味があると信じるアーティストの心構えは、とても爽快だ。
【ミラノの創作系男子たち】はイタリア在住歴の長い安西洋之さんが、ミラノを拠点に活躍する世界各国のクリエイターの働き方や人生観を紹介する連載コラムです。更新は原則第2水曜日。アーカイブはこちらから。安西さんはSankeiBizで別のコラム【ローカリゼーションマップ】も連載中です。