先月末、福井県に出かけた。イタリアの経営思想について講演するのが目的だ。地域の活性化を図る活動をしている主催者の方たちには、事前に福井市とその周辺を案内いただいた。和紙や漆の工房やテキスタイルのメーカーなどを訪問した。
福井県は大学生の頃に一度足を踏み入れたきりで、その後、まったく縁がなかった。北陸自体、4年前に金沢を旅した程度であり、ぼくがこの地域について語れる内容は乏しい。
この今回の旅に、高校生の息子を連れて行った。
実は2年前から、夏の日本滞在には高校生の息子を同伴させている。ぼくが話す講演や仕事上のミーティングに至るまで、およそ2週間、息子を連れ歩いている。
ミラノで生まれ育った彼に、日本の社会文化をリアルに見せたいという親の願いだが、息子も色々な人と知り合える機会だと喜んでついてくる。昨年は熊本に一緒に出かけた。
今夏、福井を旅したのはとても良かった。というのも、帰京したら「イタリアにおける福井を見つけたい」と言い出したのだ。
山に囲まれ田園風景が続く先にある越前和紙の里でみた和紙の工房、漆の職人が力強く明るく働く姿。これらがとても印象的だったようだ。
そこで、ぼくは1つのことを認識した。主に都内で開催される講演とその質疑応答を息子に聞かせるだけだと、日本の文化にネガティブな意見を持たせてしまう、ということだ。
それはどういうことだろうか。少々説明を要する。
この2年間、ぼくが講演する内容は「事業をするうえで、問題解決ではなく、意味をどうつくるか」をテーマとすることが多い。問題解決にはチームでアイデアを出し合うのが有利であるが、意味は1人1人の審美性(こだわり)が方向性をつくるので、1人で考えるプロセスがどうしても必要である点を強調する。
そうすると会場から「1人1人が自分で考えるというプロセスが日本の人には不得手であり、そう上手くいくと思えない。どうすれば良いのか?」との質問を受けることが多いのである。
イタリアの社会・学校において1人で考えることを徹底されている息子からすると、どうしても違和感が募る。そして「日本は全体主義の社会なのか?」と後でぼくに聞いてくる。
日本で1人1人が考えないわけではなく、あるいはどこの国においても付和雷同的な判断はあるものだ。だが、日本と欧州の社会を比較した場合、日本では1人で考え判断を下す習慣が少ないことは否定できない。
その傾向が、息子の目にはネガティブな印象に映る。これまで息子のそうした意見を、ぼくもそのまま現実として受け入れてきたが、同時にポジティブな日本をみせるよう努めていたか?と、福井の旅で自問することになったのだ。
都内では古い町並みを見せてきたし、京都や大阪にも連れて行った。東北の津波の後、仙台近郊の海辺の生々しい被害状況もあえて目にさせた。
しかしながら、冬は厳しい気候であろうと、美しい風景のなかで身体を使って生き抜く人たちの姿に接することはなかった。
息子の場合、日本で祖父母との時をかつて過ごし、観光客が見ないリアルな生活は見ている。それにプラスしてビジネスの現場にも立ち会っている。それらの経験が、彼の内発的な文化理解欲求には不十分であったわけだ。
外国人が日本の山間部の小さな村を訪れて「ああ、これだ!」と感激する様子をよくみるが、そのような経験が息子にも必要だったのだ。
ぼく自身、イタリア各地の小さな村で働く人を多く見てきた。その経験がイタリア文化の理解を促してきた、という事実をあらためて思い出したのである。
「イタリアの田舎は最強である」というキャッチコピーは、まんざらではないと思いながら、その真意を掴もうとした。そして、息子もイタリアの田舎の夏を何年も過ごしてきた。
この経験から言えるのは、こういうことだ。
いわゆる「代表的な風景」が語ることは、一見、そう多くないようにみえる。だが、「代表的な風景」がなぜ「代表的」になり得るかを知るのは、それなりの知識と経験が要される。
「代表的である」ためには、強調すべき要素と削除した方がよい要素を選択するロジックの適用があるのだ。
したがって「代表的風景がもつバランス感覚」を自分なりに分かることが、ある文化を理解することなのである。
また、頭でそうと分かっていても、子どもの頭の中がどうなっているか親にもよく分からないとの教訓もある。やれ、やれ…。
【ローカリゼーションマップ】はイタリア在住歴の長い安西洋之さんが提唱するローカリゼーションマップについて考察する連載コラムです。更新は原則金曜日(第2週は更新なし)。アーカイブはこちら。安西さんはSankeiBizで別のコラム【ミラノの創作系男子たち】も連載中です。