先週の日曜日、京都・丹後で開催されたイベントにオンラインで登壇した。テーマは丹後という地域のさまざまな資源を掘り起こし、そこに住む人たちがいかに豊かな時間を過ごせるようになるか、である。
以前、ある地方自治体の首長が「地域活性化という言葉はまやかしだ」という発言をしていた。活性化とは日々をお祭りのような空間にすることなのだろうか、と。たまに皆が集まって毎日の憂いから解放されることがあってよいが、それであっても、皆が同じタイミングでそれを欲するわけでもない。
ある人は1人で充実感を静かに味わいたいかもしれないし、ある人は人と身体で触れ合って大きな声で笑いたい。
そういう現実を分かっていても、「町ぐるみで一丸になって活性化」とのキャッチ-な言葉に引っ張られてしまう、もう1人の自分がいるのだ。
日本でややクラシックなイメージを想起するとすれば、名の知れない地域の弱小高校野球部が県予選を勝ち抜き、甲子園に足を踏み入れた時、昼間なのに地元のほぼすべての商店のシャッターがおろされ、テレビでの観戦に夢中になっている…あれが一つの地域の活性化ではなかろうか。
活性化とは、このようにトーナメント方式の試合をひとつひとつ勝ち抜いていくようなイメージを振りまいている。そんな気がしている。
少なくても、一戦一戦で進退が決まるトーナメントではなく、期間の長いリーグ方式が適切な比喩になろうかとも思うが、それにしても地域に勝ち負けという発想を持ち込むこと自体が道を誤らせる。