ゴールデンウィーク中に蒲田の銭湯に行った。サウナに入ろうとしたら休止中だった。東京都に緊急事態宣言が発令され、「自粛要請」があったそうだ。
この「自粛要請」という、本来であれば正しいとは言えない日本語を、いつの間にか私たちは普通に使っている。「自粛」は自らするものなのに、なぜ要請されるのか。あくまで「自粛」のはずなのに、周りの空気もあいまって「禁止命令」に近くなってしまっている。
「日本語の乱れ」なるものは、長年、指摘され続けてきた。これらは必ずしも「乱れ」とは言えない。言葉とは常に変化していくからだ。とはいえ、あまりに意味が曖昧な言葉、相手にとって不愉快な言葉というものがある。特に、新型コロナウイルスショックにより、蔓延ってしまった謎の日本語に対して私は警鐘を鳴らしたい。さらに、これを機に社交辞令として使われている日本語にもメスを入れたい。
「コロナがあけたら○○しましょう」を今すぐやめよう
私がコロナ時代に生まれた社交辞令の極みだと思うものが、「コロナがあけたら」という表現である。「コロナがあけたら飲みにいきましょうね」「コロナがあけたらまたパーティーしたいですよね」などである。あなたと交流したい、何かをしたい、つながっていたいという想いは感じられるものの、何を言っているのかさっぱりわからない表現でもある。
「コロナがあけたら」とはどういうことなのか? 人によって、住んでいる場所によって定義が違うのではないか? 緊急事態宣言やまん延防止策が解除されることを言うのか、ワクチンが行き届きその効果が証明された状態を言うのか、完全に2019年までの状態に戻ることを言うのか。極めて曖昧な表現である。悪意はないかもしれないが、「本当に会う気があるのか?」と思ってしまう。「飲む」ということが目的なら、別にオンライン飲み会で構わない。やや不謹慎な発言かもしれないが、本当に会いたかったら、人目を気にしつつ、SNSに投稿せずにこっそり会うはずだ。「コロナがあけたら会いましょう」は実は「あなたとは、具体的に日程を設定しない程度の関係なのですよ」と言っているようなものだ。
もちろん、この言葉を使う理由もよくわかる。コロナ時代に、飲みにいくという行為には、相手との距離感、さらには価値観、衛生感覚が合致しなくては成立しない。飲みにいこうと誘っていい関係なのか、この時代に対面で食事や飲酒をすることに抵抗はないのか、本人や家族の健康上の理由などからコロナ感染に関する危機意識が高まっていないかなど、その人について理解していないと誘いにくいのだ。だからこの社交辞令を使うのだろう。便利なのだ。
もっとも、こんなにわかりやすい社交辞令もない。相手に「どうでもいいのか、私は」と思わせてしまう。真剣に向き合っている人との信頼関係にも関わる。今すぐやめたい社交辞令だ。