その結果、人々は競争する充実感そのもので幸福を手に入れたであろうか。あるいは、他者より優位になって幸せになっただろうか。
優位に立ったからといって逆境にいる人の生活が視野から消えるわけでもない。どこかに飢餓や病苦で生存が危うい人たちがいる。戦場で射殺される人たちがいる。そういう現実を知りながら人は幸せを感じている。「自分はそこまで悪くない」という相対的な安心からの想いとは関係なく、である。
幸せが競争に勝つことや他人の不遇との比較のうえで感じるものではないことを物語っている。
「皆が、周囲の人たちも幸福だからという理由だけで幸せを感じ、自身に満足し、世界を嬉しく思う時」を如何に獲得するかをマンズィーニは語っているのだが、この何十年間か、こんなにもシンプルな言葉をぼくたちはなかなか吐露しづらかったように思う。
人々は幸せのありかに気づきながらも、競争が絶対善とされるなかで「いや、そこに長続きする幸せはない」と言いにくかった。それは、土俵から降りた敗者のナイーブな台詞と見なされやすかった。
動きの激しい都会に生活しながら生き馬の目を抜くビジネスに興奮する。一方、疲れを感じた時に森林の空気にホッとする。これに似たような見方で、「周囲が幸せだから幸せ」というのはネガティブな心境になった時の救いと位置付けられるのである。
だからと言って、前述で触れた内容に重ね、長続きする幸せは変わりづらい層にありながら、いわば一方的にその心の声を封じ込めてきたと言える…とも実は言い切れない。