大企業に勤める知人が、自分の子どもの結婚話をしていた。
「うちの子どもも結婚する相手も、それなりの大学を卒業して大企業に勤めている。相手の親もそうだ。だから、それぞれに共通の知人もいるし、話題も見つけやすく楽だ」と。
「それなりの大学出身者」の「それなりの大企業に勤める人たち」が、日本の社会で一つのコミュニティーを作っている実感は前々からあった。だが、そのコミュニティーが次の世代に継承され「それが楽だ」と表現されると、あまり褒められたものではない。
でも本人がそれで満足ならそれはそれで良い、大企業のクロースドな文化に嫌気がさして飛び出すのも本人の趣味。こう長く思ってきた。
ぼく自身、大企業をやめてイタリアに行って仕事をしている。独立した当初は、大企業の組織の硬直ぶりなどを批判し、独立の意義を盛んに語っていた記憶がある。しかしながら、とっくの昔のある時期から、そういうことを話す気がなくなった。
率直にいえば飽きた。
今、大企業の人が勤め先の愚痴に熱心なのにはウンザリすることがある。が、だからといってその人に「そんな会社、辞めたらどうか」とけしかけることはしない。前述したように、本人の選択の問題だ。
実は、それだけでは済まされない面がある。冒頭で紹介したエピソードと関わる。
大企業を辞め、まったく別の道を探したいと思いはじめた子どもを前にして、親が示唆できることがあまりに少ない現実だ。