日本はなぜ例外なくマスク着用なのか
筆者の周りでは、この2年の間に自主隔離などの難関を乗り越えて日本に一時帰国した在英組の友人が多数いるのだが、口をそろえて報告してくれるのが「日本はマスク着用が義務化されていないにもかかわらず、ほぼ100パーセントが着用している」ということである。飲食店でも食べたり飲んだりするとき以外はマスクを着けていると言うのだ。
この話を聞いて心配するのは、健康上の理由でマスクを着けるのが苦しい人も、着け続けることによって、ますます健康を害しているのではないかということである。真夏に一時帰国した友人によると、マスクなしでも息苦しい湿度と気温の中で、皆が我慢大会のようにマスクを着け続けており、震撼(しんかん)したということだった。
新型コロナウイルスの性質上、免疫力が低下することにより重症化のリスクが高まるわけだが、健康な人がそぐわない環境の中でマスクを着用し続けることでかえって基礎的な健康を害し、自然の自己免疫力を退化させているのではないかと心配になる。本末転倒のように感じるのは私だけではないはずだ。
マスク着用をめぐるイギリスの事情と日本の事情を比べてみると、イギリスの方がより選択肢の幅は広く、自由度が高いと感じる。
「他人にどう見られるかが怖い」は少数派
イギリスでは自分で「要らない」と判断したら、つけない選択をする人が多い。たとえ義務化されていようとも、自分のために必要ないと判断すれば、悪びれることなく着けない選択ができる。
一方マスク着用派の人たちは「着けることでウイルスに感染しづらくなる(あるいは人に感染させにくくなる)」「政府が推奨しているから」「着けることが社会的に正しいと感じるから」という理由が大半で、「自分だけ違うことをすると、他人にどう見られるかが怖い」と言う人はごく少数なのではないかと思う。
子どもの頃から自分の意見を持つように教育される
筆者の周りにいるマスクを着けないイギリス人に話を聞くと、「息苦しいから」という答えが大半だ。もっと問い詰めると「面倒くさいから」と言う人もいた。自分にとって意味があると思えないし、むしろ害があると感じるというニュアンス。マスク着用派の人は、明らかにマスクの有効性を信じていること、またマスクそのものへの抵抗が少ないことなどがわかった。
面白いのはその中間の人たちで、周囲を気にしてマスクを着けているが、本当は息苦しいので着けたくない人たちは、鼻を出して着用している人たちがほとんど。いずれにせよ、自分の意思でそれを選んでいると感じる。
自分で自分の行動を選ぶことについて、この国はかなり進んでいると思う。親の意見は大切にするが、親そのものが「あなたの人生なのだからあなたが選びなさい」とアドバイスすることがほとんどでもある。
イギリスでは、子どもの頃から自分の意見を持つように学校でも家庭でも教育される。学校では低学年の頃から自分の考えを他人と共有するために議論をする「ディベート」のクラスがある。自分の考えとは関係なく、真反対の立場に立って議論する模擬ディベートもある。
その過程で子どもは自分の考えを組み立て、相手に言いたいことを伝えるにはどうすれば良いかなどの技術を育んでいく。人前で話すのがうまいイギリス人が多い事実にはこんな背景があり、よく知る友人が結婚式などで感動的なスピーチをして隠れた才能に驚かされることもしばしばだ。
自分で責任を取る成熟したイギリス社会
他人と違う意見を持つことは、悪いことではない。これがイギリス社会にある根本的な考え方だ。他人の意見に耳を傾けると同時に、自分の意見を述べ、より良い結論へと導く。皆が同じ意見である必要がない。特にロンドンは生まれた国が違う人も多いので、そういった共通認識があるから暮らしやすいのかもしれない。
注意したいのは、自分で意見を持つことは、その意見に責任を持つことでもあると知ることだ。
日本では概して年上の人の意見を尊重するように育てられるので、なかなか自己責任の文化が育ちづらいという傾向にある。そのせいか「自己責任」という言葉に少しネガティブなニュアンスまであるようだが、イギリスでは大人なら自己責任が当たり前。自分の選択に責任を持つことが求められる。
また自分の言葉や行動に責任を持つことは、社会に対する責任にもつながっていく。近年声高に唱えられている持続可能な社会の実現について目標を掲げたSDGsなどは、社会で取り組むことでもあるが、その社会を構成する個人の行動や責任が大きく関わってくる。個人が動かなければ、世の中は何も変わっていかないからだ。大きな流れに身をまかせ、個人の意見を言わないでいることは自分のためにならないし、決して国のためにもならない。