東芝問題で浮上した“経産省不要論”
再建が思い通りに進まず、メディアを賑わせる“事件”が続く東芝が、またもや批判の的になっている。同社の経営について批判的な大株主である、アクティビスト・ファンド(物言う投資家)の動きを封じるため、経済産業省から「指導」を受けただけではなく、両者が結託して、ファンドに賛同しようとする他の投資家を牽制(けんせい)したというのだ。
東芝は、そのファンドが設置した第三者委員会の調査結果を受けて、事実を認め謝罪したのだが、「共犯」とされた経産省は、「日本の国益を守るために当然のことをしただけ」「東芝だけが特別ではなく、普段から当たり前に行っている」と開き直ってしまった。
事実の真偽や責任追及については、今後のメディアの取材と検証に委ねるが、ここに来て「経産省不要論」が出ていると聞いて、驚いた。
戦後、日本は政官財のみならず、国民も一丸となって焼け野原からの復興に情熱を注いだ。その鍵は経済の再生であり、世界に比肩できる産業の勃興こそが、急務だった。
その旗振り役として活躍したのは、経産省の前身、通商産業省だった。
国産自動車開発を支え、電機メーカーを結集して、汎用から最先端までの機器製造を推し進め、それが「モノづくり大国」として結実し、一時的ではあったが、米国を抜いて世界一の経済大国にまで上り詰めたのだ。
その経産省が不要――?
理由は、「所管する規制が少なく、権限も曖昧なため」らしい。
確かに「規制」こそが、国家権力の象徴に思われているのは、事実だ。だが、今や世界的な規制緩和の時代であり、国際競争力をつけるためには、可能な限り規制をなくす必要がある。
本来、自由主義経済を発展させるために、国家は可能な限り干渉しない方が良いと言われている。それは、欧米先進国の謳(うた)い文句でもあった。だが実際のところ、各国は国益を守り増やすため、積極的な政治介入を行っている。
たとえば、大統領や首相が外国に訪問する時は、その国の一流企業の経営者が同行し、共に「トップセールス」をするのは、当たり前だ。さらに情報機関は、自国企業が海外で富を確実に得るための情報取得から、時にライバルを打破する手伝いまでしている。全ては、自国の豊かさを守り、あわよくばさらなる富を手に入れるためだ。
つまり、官庁の最大の役目は規制の管理ではなく、富を守ることなのだが、どうやらわが国では未だに所管する規制の多さこそが、官庁の軽重を決めているようだ。
それは間違いなのだが、「経産省なんていらない」という声が上がっても仕方がない理由は、別にある。