海外情勢

紙幣により栄え、紙幣により滅んだ王朝 現在の中国も同じ“パターン”に…

 金融不安からバブルがはじけ、王朝が崩壊するということが繰り返されてきた中国。経済の悪化により、金融緩和姿勢を取り続け、紙幣を増刷している今の中国で、まさに同じことが起ころうとしています。貨幣経済が浸透した10世紀なかばの宋王朝にさかのぼり、その背景を見てみます。

 マグマのように蓄積する金融不安

 中国の2019年7月から9月までのGDP伸び率は、前年比6.0%にとどまり(10月18日に発表)、四半期ごとのデータが公表され始めた1992年以降において、最低となりました。しかし、この6.0%という数字をまともに信用する人はいないでしょう。実際は、すでにマイナス圏に沈んでいるのではないかという見方もあります。

 中国経済が減速しているのは今にはじまったことではありませんが、問題は中国景況感の悪化に重なり、金融不安がいっそう深刻になっているということです。それがマグマのように蓄積し、世界経済の地殻変動を引き起こす可能性が高まっています。

 企業債務が拡大する中で、中国人民銀行は預金準備率を頻繁に引き下げるなど、金融緩和姿勢を取り続けています。流動性は過剰になる一方で、債務問題は一向に解決していません。

 アメリカが対中関税を課した影響もあり、中国人民元の下落が止まらず、8月5日には、1ドル=7元台となりました。これは2008年以来約10年ぶりのことで、さらに、人民元安が続くと想定されます。

 中国の歴史を見れば、金融不安からバブルがはじけ、王朝が崩壊するということが繰り返されてきました。中国はヨーロッパなどと異なり、強大な中央集権王朝が全土を統治し、その指導力によって、金融政策が先進的なかたちで施行されてきました。兌換紙幣を史上初めて、導入したのも中国でした。

 960年に成立した宋王朝で、貨幣経済が浸透しました。宋の年間の銅銭鋳造量は唐王朝時代の約50倍にも及びました。宋の通貨は銅銭と鉄銭でしたが、銅銭と鉄銭は重く量がかさばり、持ち運ぶには不便でした。それを解消するため、交子鋪という民間の両替所が設立されます。交子鋪では、銅銭や鉄銭を預かって、交子という預り証を発行しました。交子を持つ人はそれで買い物ができ、交子を受け取った商店はそれを交子鋪に持ち込み、銭に替えることができました。

 北宋において、多くの地域で銅銭が流通していましたが、四川や陝西では銅よりも鉄が多く産出されていたため、鉄銭が流通しました。鉄銭は銅銭よりも重く、ほとんど持ち運びが不可能だったため、人々は交子に頼りました。

 その後、四川の交子鋪が、事業に失敗し、銅銭の準備高不足で不払いを起こしました。宋王朝は1023年、交子鋪の救済をおこなうと同時に、交子両替のビジネスを民間の交子鋪から取り上げ、朝廷の専売ビジネスとします。朝廷が直々に交子を発行したことによって、交子は公的な兌換紙幣となり、全国に普及しました。これが史上初の兌換紙幣です。

 紙幣により栄え、紙幣により滅ぶ

 宋王朝は銅銭・鉄銭の兌換準備金36万貫に対し、交子の発行限度額を125万貫としました。著しい経済発展のなか、宋王朝は銅銭や鉄銭の鋳造を追いつかせることができませんでしたが、交子の発行によって、貨幣供給を増大させました。

 しかし、宋王朝が財政に窮しはじめ、財源を確保するため交子の発行限度額が破られ、濫発されるようになります。交子の発行額は12世紀初頭に、2600万貫となり、当初の発行限度額の20倍以上に達します。交子は信用を失い、その価値は暴落しました。これに伴い、市場は信用不安を起こし、経済は破綻していきます。最終的に宋王朝は異民族に滅ぼされます。

 宋を倒して、元王朝を創始したフビライ・ハンは、北宋と南宋が発行していた紙幣である交子と会子を交鈔(中統鈔)に交換させ、交鈔を法定通貨と定めました。交鈔は元王朝が準備する莫大な銀保有で、信用保証されていました。

 当時、ヨーロッパには紙幣はなかったため、マルコ・ポーロが中国を訪れたとき、交鈔を見て驚きました。『東方見聞録』にも、元の紙幣について、以下のように記されています。

 「ハンは一切の支払いを紙幣で済ませ、治下の全領域に、これを通行せしめる。流通を拒めば死刑になるので、誰一人として、授受を拒む者はいない。実際のところ、どの地方でもどんな人でも、いやしくも、ハンの臣民たる者なら誰でも、快く紙幣での支払いを受け取る。というのも、彼らはどこへ行こうと、紙幣で万事の支払いができる」

 元王朝に来訪したモロッコの大旅行家イブン・バトゥータも旅行記『三大陸周遊記』で、交鈔について記しています。

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