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庭の記録者 野良猫の「ロス」 長塚圭史
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雨があがると、ロスも顔を出しました。もちろん、ご飯を食べにです(長塚圭史さん撮影)
この1カ月、我が家で朝飯を共にする訪問者がある。共にすると言っても同じものを食べるわけではなく、彼が、あるいは彼女なのかもしれないが、とにかくその訪問者が食べるのはシーバである。つまりキャットフード、だから猫、要するに野良猫なのだけれど、これが1カ月程前の或る朝庭にひょいと現れ、伸びたり縮んだりお日様に当たっているのがのんびりと面白かったので、実家の猫を預かった際に残ったキャットフードをちょいと与えてみると、それほど警戒もせずにむしゃむしゃやり始めた。おそらくこうやってそこかしこで人間に餌を与えられたりしながら生きているのだろうけど、毒でも盛られたらあっという間にやられてしまうじゃないか、人を疑うということも学ばないと危ないなあなどと思いながら、安全なシーバを貪(むさぼ)る野良猫を眺める。
翌日もまた翌日も、餌を求めてやってくるようになった野良猫を面白がったのは私よりも妻で、毎朝庭を覗くようになった。
私はそれでもやっぱり野良猫だから気まぐれなものだから、必ず来るとは思わないほうがいいよ、と言った。或る朝、とうとう野良猫は来ず、朝置いた餌が夜になってもそのままになっていた。あんまり思い入れするとつまらない喪失感を味わうことになるなあと心配していたところだったので、まあこれで一段落着くかと思っていた。すると深夜に音がする。カリカリカリと。やっぱり夜になってお腹を減らしてやってきたのだとカーテンを開けると、なんとハクビシンの親子がキャットフードを貪っている。それもなかなか豪胆で、窓越しに写真撮影などしても動じず全部平らげて去っていった。案外この東京にもまだまだ知らないようなものが棲息しているのかもしれない。ハクビシン親子はそれなりにチャーミングな姿形ではあるのだけれど、これが屋根裏などに入り込むと大変なことになるという話も聞いていたので、今後、深夜まで餌を置くようなことはやめて、朝、例の野良猫が遊びにというか、腹を空かせて来た時にだけ餌は出す事に決めた。
ハクビシンの夜以降、野良猫はほぼ毎日のようにやってきた。最初は少し離れた木の陰で待っていたのだが、最近では窓ガラスに鼻を押し付けんばかりに覗き込んでいる朝もある。それでいて餌を出すと、やっぱりまた木の陰まで逃げたり、時には威嚇のシャー音さえ発する。そういう心構えは歓迎である。生き延びる術となる。私たちはオスだかメスだかわからないこの野良猫訪問者をいつからかロスと呼ぶようになっている。ロサンゼルスのことではない。
現在私たち夫婦は揃ってウィリアム・シェイクスピアの『マクベス』という作品に携わっている。妻はかの有名なマクベス夫人役として、私は演出として10月から稽古をし、先日12月8日にとうとう幕を開けたのだけれど、この作品の登場人物の一人にロスというのがいる。ロスは物語の舞台となるスコットランドの領主の一人で、実はまったく有名な役ではない。しかしその割にはそこら中の場面に登場しており、しかも極めて重大な場面に関わっている。マクベスが魔女から運命を授かる場面にも遅れて登場するし、マクベスが殺害したバンクォーの亡霊に嘖(さいな)まれる場面、宿敵マクダフの家族が殺される場面にも。更に台詞を読み解くと、あらゆる惨劇を目撃しているということがわかってくる。まるで記録者としてそこにいるのだ。冷静なロスの目は、観客をいたずらに物語に引きずり込むことを食い止める。感情移入という小さな世界に観客を落とし込まないところにシェイクスピアの凄みがある。『マクベス』におけるそういった装置の一つとしてロスの存在があるのではないだろうか。私はそこまでロスを記録者然とはさせなかったが、旅人として位置づけた。旅人には批評眼が備えられるからだ。
あの野良猫に記録者としての資質を感じたわけではないが、庭から我が家を覗く目には、動物特有の不可解さも相まって、底知れず神秘的で、多分餌が欲しいだけなのだろうけれど、いやもしかするとああして人間界を俯瞰(ふかん)しているのかもしれないなあなどと考えたのか考えなかったのか、とにかくロスという称号を与えてみたのだが、ロスはそんなこと全く知らず、今日は久しぶりに雨で顔を見せず、妻がまた庭を覗いている。(演出家 長塚圭史/SANKEI EXPRESS)