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踏み越えてはいけない一線 本谷有希子

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踏み越えてはいけない一線 本谷有希子

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 お気に入りのトランク

 我が家の階段の脇には、いつも旅行トランクが置いてある。

 奮発して買ったそのトランクは、あまり他では見かけない深い緑色。革のベルトがいい味を出していて、私のお気に入りだった。それに、そのまま部屋の片隅に飾っても通用するだけの世界観があるお陰で、いちいち旅行のたびに納戸を引っ掻き回さずに済むので、非常に助かっていた。

 その日もトランクは階段の隅にきちんとあった。私の目を引くようなものは何もなく。だが、郵便物を手にした私は足を止めると、少し離れて深緑色のトランクを眺めた。ふーむ。そろそろ、ずっと禁じていた〈あれ〉をやってもいいかもしれない。

 書斎に戻った私は、抽(ひ)き出しの奥から小さな紙製の袋を持って来ると、中身を引っ張り出した。それは二枚のステッカーだった。一つは小さな島の周りにもくもくと雲のようなものが浮かんでいるステッカー。もう一つは、白いヨットの形。私は立っていたトランクを床に寝かせると、ああでもないこうでもないとそのステッカーを貼り付ける位置を検討し始めた。せっかく仕事をしながら飲もうとコーヒーを淹れたばかりだったのに。

 今まで私は、トランクにステッカーを一切貼らない主義だった。なんだかどの国に行ったかを知られるのが恥ずかしかったし、大事なトランクの持つ世界観をおとしめるんじゃないか、と大いに訝(いぶか)しんでいたからだ。それに貼ってみなければ、本当にそれがイケてるかどうか分からないし、貼ってしまえば取り返しがつかないし。旅行先で気に入ったステッカーを見つけるたび、荷物にならないからと購入していたくせに、貼るまでに至らなかったのには、そうした数々の理由があった。

 それなのにこの日私は初めて、今なら別にいいかな、という気持ちになったのだ。何度か旅行したお陰で、深緑色のトランクが思った以上に使い込まれていたからかもしれない。私は、白いヨットを端っこに置いて、何度もこの位置でいいか確認したあと、あんまり考え込むとかえって作為的な雰囲気が出てしまうんじゃないかと思い直し、結局、そのあたり目掛けてポイと放り投げた場所に、ステッカーを貼り付けた。正解がよく分からなかったが、思いきってもう一枚も裏側に貼った。どうやらそれで、私の中で何かが崩壊してしまったらしかった。

 寸前で踏みとどまる

 次の日から私はネットで、過去訪れたことのある国のステッカーを探し、一枚ずつ取り寄せ出した。まさかステッカーを貼るのがこんなに楽しいだなんて! なぜ今までちゃんと現地で買わなかったのだろうと大いに悔やんだ私は、数日後、届いたステッカーをすべて貼ると、トランクへの愛情が過剰に深まっていることに気付いた。ああ、もっと貼りたくて仕方ない。どうしよう。どうしよう。

 そして、とうとう私は禁断の行為を犯してしまった。まだ行ったことのない国のステッカーを、ネットで見つけ、何も考えずに買ってしまったのだ。エジプト-後日、それが手元に届いた時、ようやく私は我に返った。この一線だけは絶対に踏み越えてはいけない。震えながら自分に言い聞かせた。エジプトを許せば、もう私は自分を止められなくなってしまうだろう。次はコスタリカ。次は南アフリカ共和国。マダガスカル。キューバ。ラオス…。

 ぎりぎりのところで、私は最愛のトランクを守ってやることができた。つい一週間ほど前の話だ。今ではトランクは我が家の階段脇に、まるで何事もなかったように収まっている。私にはそれが、禁断の行為のことは見逃してやろう、と言っているように見えてしょうがない。(劇作家、演出家、小説家 本谷有希子/SANKEI EXPRESS

 ■もとや・ゆきこ 劇作家、演出家、小説家。1979年、石川県出身。2000年、「劇団、本谷有希子」を旗揚げし、主宰として作・演出を手がける。07年、「遭難、」で鶴屋南北戯曲賞を受賞。小説家としても11年、「ぬるい毒」で野間文芸新人賞受賞。短編集「嵐のピクニック」で大江健三郎賞を受賞。新刊「自分を好きになる方法」(講談社)が発売中。

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