空港アクセス路線の誕生
次の変化は1920年代に訪れる。1922年に池上電気鉄道(現在の東急池上線)、1923年に目黒蒲田電鉄(後の東急目蒲線、現在の東急目黒線・東急多摩川線)が開業し、東京の南西部の住宅開発が進んでいく。郊外と山手線を結ぶ私鉄の開業は、関東大震災後の東京の郊外化を推し進めた。その起点が蒲田にあった。
もうひとつ蒲田を代表する路線が京急空港線である。この路線は1902年に穴守稲荷の参拝客を輸送するための穴守線として開業した、1931年に羽田飛行場が開港すると、(まだまだ一般利用者の数は少なかったものの)空港アクセス路線としての性格も持ち始める。
しかし戦後、アメリカ軍が羽田飛行場を接収し、空港を拡張。これを受けて穴守線は羽田空港の敷地から追いやられることになった。京急は羽田空港が返還された後、1956年に空港の手前まで線路を延ばし、羽田空港駅を設置。1963年に穴守線から空港線へと改称するが、駅と空港は距離が離れており、実質的には空港アクセス路線としては機能しない路線だった。代わって主役となったのが1964年に開業した東京モノレールだ。
そんな京急だが、1980年代に羽田空港の拡張計画が浮上すると空港線のターミナルビル乗り入れが決定し、1998年に延伸開業を果たす。東京モノレールとの旅客獲得合戦を繰り広げ、現在では京急がシェアで上回っている。
2010年には品川から羽田空港まで無停車のエアポート快特の運行を開始。この「蒲田飛ばし」には大田区から物言いがつくも、2年後のダイヤ改正で京急蒲田停車の列車が増えて一応の決着となった。
現在、東急蒲田駅と京急蒲田駅を結び、東急線沿線から羽田空港へのアクセスを向上させる「蒲蒲線」の構想がある。実現にはまだまだ時間がかかりそうだが、蒲田の鉄道をめぐる動きは今後も続きそうだ。
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