巨大迷路やテーマパーク、屋内スキー場に屋内温水プール……バブル経済華やかなりし頃、大箱のエンターテインメント施設が全国各地に出現した。1994年、日本の世相がバブルの惰性飛行で浮かれ続けていた頃にオープンしたのが『新横浜ラーメン博物館』である。戦後ノスタルジーを再現した館内で、各地から集まった麺豪がしのぎを削るラーメンアミューズメント施設だ。
その時代に出現したラーメン店に焦点を当て、日本経済の興隆と変貌、日本人の食文化の変遷を活写する本連載。今回は、初の本格的ラーメン集合施設として始動し、今なお盤石の存在感を誇る『新横浜ラーメン博物館』に焦点を当て、90年代に開花した「ご当地ラーメン」ムーブメントに迫る。
■高度経済成長期のシンボルとして回顧される昭和ラーメン
1994年3月6日午前11時、新横浜ラーメン博物館が開業。全国から厳選した8店舗が軒を連ねるラーメン集合施設の走りだが、こちらのコンセプトは「五感で味わうラーメン文化」。館内は「チキンラーメン」誕生の年である1958年(昭和33年)の下町を目指し、往年の映画ポスターや電話ボックス、都電の駅などを忠実に再現した。
「ここを訪れた来館者は、快いノスタルジアに浸り、大人は子供に帰ることができる。この街では誰もが無垢な心と旺盛な好奇心を持った子供になれるのだ。夕焼けの空き地で、かくれんぼやままごと、メンコ、ベーゴマ、ビー玉遊びに夢中になった子供に戻れるのだ」(『メイキング・オブ・新横浜ラーメン博物館』みくに出版)
映画『ALWAYS 三丁目の夕日』も、同じく1958年の東京下町を舞台にしている。もはや、これが昭和の街並みのテンプレート。当時を経験していない者でも懐かしく感じてしまう、ノスタルジアがさりげなくアピールされているのだ。バブルの残り香が強く残り、金満金ピカな空気が世相を覆っていた1994年。しかし、この年の1~2月には前年の不作を受け、国産米を求める主婦が米屋、スーパーに殺到する「平成の米騒動」が勃発。10月にはサントリーが業界初の発泡酒「ホップス」を発売。新語・流行語大賞に「価格破壊」がランクインするなど、その後のデフレ不況の予感もあった。
さらに、就職氷河期ファーストシーズンでもあり、多くの団塊ジュニアが非正規雇用に身を投じてもいる。失われた10年が20年になり、30年になる--負のスパイラルの予感は随所にあった。
ちなみに、新語・流行語で大賞を受賞したのはドラマ『家なき子』の「同情するなら金をくれ!」である。忍び寄る不況、日本が階層社会に傾斜することへの不安--大衆の深層心理が輝ける高度経済成長期への郷愁を呼び起こし、昭和ギミックは大いなる共感を呼んだのだろうか。当時、この施設の登場に大衆が感じた驚き、高揚感を写真週刊誌『フライデー』の記事から引用してみよう。
「まるで過去にタイムスリップしたかのような光景に、過ぎ去りし少年時代を思い出し、ついじーんときちゃうオジサンもかなりいるんじゃなかろーか? オジサンたちが郷愁にひたるも良し、当時を知らない若いカップルが、アミューズメントパーク感覚で訪れるも良しの“哀愁のラーメン街”。ただし、お値段は当時の物価指数そのままじゃないから、そこんとこヨ・ロ・シ・ク!」(フライデー 1994年3月11日号)