戦後復興から高度経済成長期を経て、バブル景気に至ったニッポン経済。これまでの本連載でも、コッテリ豚骨に濃厚鶏スープ、ギットリ背脂……大衆のエネルギッシュな胃袋に訴求したラーメンを取り上げてきた。その時代に出現したラーメンに焦点を当て、日本経済の興隆と変貌、日本人の食文化の変遷を追っていく本連載。今回は1988年--バブル景気華やかなりし東京で創業した「無化調」(化学調味料不使用)の一杯に迫る。
■「化学調味料不使用」を掲げ、武蔵野で旗揚げ
バブル景気-1986年(昭和61)12月から1991年(平成3年)2月までの4年2か月に渡って続いた好景気である。そのバブルの、まさにど真ん中となる1988年12月。東京は吉祥寺にラーメン店『一二三』が創業した。
「ダシは名古屋コーチンのガラ・昆布・煮干し・鰹節で採った和風。塩は伊豆大島の天日海塩。正油は小豆島の天然醸造、ダシは天日煮干しなど素材にこだわっている。化学調味料は一切使わない。純粋名古屋コーチンの玉子をじっくり煮込んだ味付け玉子。全席禁煙、強い香水をつけた人、お断り」
これは、『一二三』店内に掲示されたメッセージだ。産地や季節ごとの違いを繊細に見極め、食材を徹底的に吟味。店内は完全禁煙。近年のラーメン屋では珍しくないアナウンスだが、当時は「食の情報化」黎明期だ。「意識の高いラーメン」としてのインパクトは相当なもの。創業者・匠ゆうじが吉祥寺を創業の地に選んだ理由も「この地の水が最も料理に適して」いたというものだった。
「武蔵野市の水道水は、地下水6割と、残り4割が朝霞などの水道水を利用したものです。水質がPH7.2~7.4の弱アルカリの軟水なので、良いだしに適しているのです」(週刊ポスト1993年11月5日号「一二三そば考現学」より)
匠は食品会社に勤務後、脱サラして独立。「安く、大量に、早く。長期保存が可能な食品を提供する」企業にあり、イクラやカニなどのコピー食品を開発し、安さ重視の輸入食品を取り扱うことに辟易としていた彼は、安価で手軽なコピー食品やジャンクフードから脱却し、「本物を食べさせる店を出そう」と独立を画策したのだ。
その創業に先立ち、88年5月には首都圏情報誌『Hanako』(マガジンハウス)が創刊されている。アーバンなライフスタイル情報誌として立った同誌が注力したのがレストラン情報だった。フードジャーナリストの畑中三応子は「定期刊行型のガイド雑誌が存在していなかった東京で、最初の週刊レストランガイドとして機能」したのが『Hanako』だと分析する。イタ飯、飲茶、ティラミス……誌面にはバブルの東京に花咲くトレンドフードが踊った。
創業時の匠の根っこにあったのは、爛熟する食文化への危機感、伝統の味に回帰する思いだ。しかし、彼のアウトプットは食材の徹底した吟味、ディテールの追求としても表れていた。これは『Hanako』が種を蒔きいた「情報を食う」食の消費スタイルと好相性だったのである。
ラーメン1杯には約17匹分の煮干しを用いるが、当時でも少なくなっていた天日干しを求めて九十九里、焼津、氷見の漁港に買い付けへ。和ダシの中心はサバ節だ。味わいの違う屋久鯖、房州鯖、梅好鯖の3種の枯節をブレンドし、乾物からはさらにホタテ、シイタケも荒葉、シッポク、ドンコの3種をセレクト。スープの主素材として純粋種名古屋コーチンの肉付きガラを調達し、髄からもとことんうま味を抽出する-それが匠ゆうじのラーメンだった。素材へのあくなき探究と同様、味づくりの根底は「化学調味料は一切使わない」というテーゼがあった。