「邪道」と高級洋食店のコックが切り捨てた背脂こってりラーメンは、夜を徹して働く労働者たちに熱狂的に支持された。同時期、製鉄のまち・君津では九州ラーメンが故郷の味を届け、金属加工の工場が立ち並んだ燕では背脂+極太麺が工員の夜を支えた。その時代に出現したラーメン店を軸に、日本経済の興隆と変貌、日本人の食文化の変遷を見通す本連載。今回は高度経済成長期、東京オリンピック1964へと駆け上がる日本経済にフォーカス。働く者たちの心に火を灯したラーメンに迫る。
■こってりギトギト、屋台ラーメンが夜を駆ける
政治の時代から経済の時代へ--時は、列島がグツグツと寸胴のように沸き上がった1960年だ。総理に就任した池田勇人は所得倍増計画を発表し、自民党・社会党の二大政党制による55年体制で政局も安定。激烈な反対運動が巻き起こった日米安保条約も承認へと向かう。前年には東京オリンピックの招致が決定。国民の胸は高鳴った。槌音が響く日本列島。オリンピックの競技場や宿泊施設などが急ピッチで建設され、鉄道や高速道路の整備も進む。総工費が当初予定の2倍近く、3800億円に達した東海道新幹線など、関連事業すべてを含めた費用は1兆円にも及んだ。
ちょうどこの頃--壮大なインフラ建設の影に、塵芥のように扱われる労働者の人海があった。彼らを支えたのは、やっぱりラーメンだ。こってりとして脂っぽく、濃い醤油味。食べごたえのある太麺が存在感を発揮。男たちが忙しく、ワシワシ喰らう姿が似合う一杯。現代まで支持され続ける背脂豚骨ラーメンの原型だ。まずは1960年、屋台として創業した「ホープ軒」に光を当ててみよう。
たっぷり投入された背脂が、パンチのきいた豚骨スープに豊かなコクと甘みを与える。「背脂チャッチャ系」などと呼ばれ、80~90年代の東京ラーメンシーンを席巻し、東京発のラーメンとして親しまれる味だ。源流は、難波二三雄が戦前の錦糸町で引き始めた屋台『貧乏軒』。戦後、難波は『ホームラン軒』、次いで『ホープ軒』へと改称し、貸し屋台業もスタート。難波は自店で製麺した麺、関連の取引業者から食材を仕入れることなどを条件に屋台を貸与し、フランチャイズの発想で都内一円に『ホープ軒』ネットを広げていく。
1960年当時、東京都内には約3700台の屋台が稼働していた。チェーンをはじめとする外食産業が勃興するのは70年代、大阪万博後のことだ。三丁目に夕日が落ち、街灯ほの暗き60年代。夜の外食ニーズを担ったのはおでん、そしてチャルメラの音とともにやってくる中華そばの屋台だった。そして、この『ホープ軒』屋台グループに参画するのが牛久保英昭。浅草に生まれ、東京大空襲で焼け出された苦労人である。
牛久保は好立地を求めて試行錯誤し、内幸町を屋台の拠点とした。一帯はNHKやジャパンタイムズといったメディア、三井物産などが本社を構え、不夜城の趣。そんな格好のロケーションを活用し、彼は独自の工夫で「牛久保ホープ軒」を繁盛屋台に押し上げていく。競合が石油コンロ、練炭などを使用していたところ、プロパンガスを備え付けで火力を大幅に増強。麺は太めにカスタムし、量も通常より大盛りにした。これはボリュームを出しつつ、オペレーションにも配慮したもの。20杯以上を一気に作る繁盛屋台の工程では、のびやすい中細麺ではなく太麺が最適解だったのだ。
さらに、牛久保は濃い味を指向する顧客ニーズを察知し、豚骨スープに豚背脂を加えた。背脂はスープに加えると、脂が浮いてギトギトし、野趣あふれる見た目になる。炊き込むと出る独特の匂いもあいまって、料理に多用されてこなかった部位だ。高級ホテルのコックたちが屋台に来ると、背脂スープを「邪道」と切り捨てたこともあったという。
しかし、独特な味わいは熱烈な支持者も生んだ。近隣のホワイトカラー、タクシー運転手たち。そして東北などからやってきたブルーカラーだ。近隣の三宅坂には東京オリンピックを控えて首都高速の建設に励む労働者の集落があった。開高健がルポ『ずばり東京』で活写している通り、3000人以上の出稼ぎ労働者たちがバラックに寝起きし、1日10時間以上の労働、休日は月2日というブラックな環境で建設作業に従事していた。『ホープ軒』のワイルドな味は、汗水たらして働く男たちを癒やしたことだろう。
牛久保の『ホープ軒』は1975年、国立競技場前に店舗を構えた。背脂東京ラーメンのオリジンの一角は、今なお元気に営業中。鮮やかな「ラーメンの店 ホープ軒」という看板で、再びの東京オリンピックを迎える。