1945年の敗戦、焼け跡から立ち上がった日本人を支えたラーメン。本連載は、その時代に出現したラーメン店に焦点を当てつつ、日本経済の興隆と変貌、日本人の食文化の変遷を追っていく。第3回は1955年--自民党と社会党を基軸とした「55年体制」が始まった年にクローズアップ。この年、現代ラーメンの一角として存在感を発揮するメニューの「つけ麺」が開発されている。豊かな麺食文化を基盤に花開いた、パワフルなメニューの萌芽に迫る。
■厨房の賄いから生まれた「つけ麺」誕生をプレイバック
「米のメシを腹いっぱい食いたい」
食糧不足が深刻な戦後直後、代用食でしのぐ民衆の切実な願いだ。1950年、「所得の少ない方は麦、所得の多い方は米を食うというような経済原則に沿ったほうへ持っていきたい」という池田勇人大蔵大臣の発言が「貧乏人は麦を食え」と伝えられ、国民から猛反発を受けている。1951年のヒット商品「バヤリースオレンジ」、不二家「ミルキー」からも分かるように、当時の日本人は欧米の食生活、そして甘味やコクへの憧憬を抱いていた。
その食糧難をヤミ市発の「中華そば」が支えたのは、本連載第1回で詳説した通りである。しかし、そこからの復興はあっという間。常設露店撤去の方針を受けて都内6000以上の露店が姿を消し、ヤミ市は1951年に消滅。そして敗戦から10年が経った1955年、米の生産量は戦前の水準に回復し、戦後直後に60%を超えていたエンゲル係数も44.5%と50%を割り込む。
この時期、日本人の脂肪摂取量も1955年を境に急速に伸長。戦後直後は1日あたり16gだった摂取量が、この年に20gに到達。1960年には25g、1966年には40gに及び、日本人は急速に油脂になじみ、脂っぽい料理に傾斜していく。食生活においても「もはや戦後ではない」スタートラインが1955年だったのである。
そのピースの一つが「ラーメン」。そして、ラーメン店の職人が開発した「つけ麺」である。濃厚な醤油ダレと豚骨・魚介のパワフルなスープでつくったつけ汁に、水でギュギュッと締めた太麺を合わせていただく、ラーメン店ではおなじみのメニューだ。
ここで、つけ麺開発ヒストリーを振り返ろう。つけ麺を開発したのは山岸一雄。1934(昭和9)年に長野県に生まれ、16歳で上京して旋盤工として働く。ラーメン業界に入ったのは、親戚である坂口正安に請われたからだ。坂口は第1回連載で取り上げた荻窪『丸長』創業メンバーのひとり。彼は『丸長』から阿佐ヶ谷『栄楽』で研鑽し、中野に『大勝軒』を起業する。山岸は栄楽、中野大勝軒で製麺やスープづくり、麺揚げなどを一から学んでいったという。
もともと、つけ麺は『丸長』『栄楽』のまかないメニューとして食べられていたものだった。丸長のれん会は「つけ麺は『丸長』の創業者青木勝治が『ざるそば気分で』考案し、まかないとして食されていました」と発祥に言及。山岸も生前のインタビュー(『魂の仕事人』第23回)で次のように語っている。
「ゆで上がった麺をザルからどんぶりに移すときに、1本とか2本はザルに残るわけ。「栄楽」ではそれを捨てるのはもったいないからってとっといて、ある程度集まったら、唐辛子やねぎを入れたスープにつけてまかないかわりに従業員が食べてた。(中略)
中野店の店長になってからもそういうふうにして食べてたら、それを見たお客さんが「うまそうなもん食ってるね」って声をかけてきた。そのとき、「これをメニューにしたら売れるかも」と思って、いろいろ試行錯誤しておいしいと思えるものができたから商品化したわけ」
こうして1955年、つけ麺が初めてメニュー化される。山岸が命名したのは「特製もりそば」。価格は当時ラーメンが1杯35円のところ40円。水で締める作業で手間がかかる分、ラーメンよりも高めのプライシングだった。中野大勝軒で「特製もりそば」はスマッシュヒットを飛ばし、つけ汁に麺をつけてズズッと啜っていく--つけ麺のスタイルが確立したのだ。