ラーメンとニッポン経済

1947-焼け跡に湯気が立つ、信州発の「中華そば」

佐々木正孝
佐々木正孝

 2020年代を迎え、日本のラーメン文化は多彩に、そして豊穣な進化を遂げた。東京発祥の中華そばだけではない。全国各地で完成度を高めるご当地ラーメン、グローバルモードでバージョンアップした“RAMEN”もある。本連載は、その時代に出現したラーメン店に焦点を当てつつ、日本経済の興隆と変貌、日本人の食文化の変遷を追っていくものだ。第1回は混乱を極めた戦後直後、ヤミ市で人々がすすったラーメンにフォーカスしていきたい。

■そこはヤミ市、行列をつくったのはワイルドな「中華そば」

 1910年、「初めてラーメンブームを起こした」とされる『浅草 來々軒』が浅草で開業して以来、ラーメンは大衆食として一気に広まる。同店の「支那そば」は鶏がメインのあっさりスープ。この味わいが東京最大の歓楽街で注目を集めたことから、戦前の都市生活を代表するトレンドフードになっていったのだ。しかし、1940年代には戦時の食糧統制が始まり、街からラーメンの香りは消え去ってしまう。まずは、戦後の復興期にラーメンがいかにして再生したのかを探ってみよう。

 1945年8月。太平洋戦争、終戦--。東京をはじめとする都市は焼け跡からのリスタートを強いられた。食糧事情が悪化したこの年、日本列島を襲ったのは冷害・台風というダブルパンチ。1909年以来という記録的な大凶作になり、米は1935~39年平均に比べてマイナス39%の減産となっている。旧満州・朝鮮半島などからの引揚者に加え、軍人たちも復員し始め、トータルで約600万人以上という人口急増も拍車をかけた。主食の配給量は成人1日あたり米二合一勺(約315g)にすぎず、米のヤミ価格は公定価格の132倍にまで跳ね上がった。日本国民は深刻な食糧難、特に主食である米の不足に苦しんだのだ。

 1946年にかけては300%を超えるインフレもあり、経済は大混乱。農村部に労働力は少なく生産性は低下し、輸送用燃料の払底もあって市場への流通もままならない。都市部の食糧事情が悪化を続ける中、5月19日には皇居前に25万人以上もの都民が集結。「飯米獲得人民大会」、別名食糧メーデーという名のデモが敢行された。GHQ最高司令官のマッカーサーは、この動きが社会主義運動、左傾化につながることを懸念。米の供出を増やすため、ジープに乗ったGHQの憲兵が農家に押しかけて出荷増を迫る「ジープ供出」まで行われている。

 餓死者や栄養失調者が続出する中、都市生活者は農村への買い出しで手に入れたサツマイモ、非合法の自由市場であるヤミ市の残飯シチューなどで飢えをしのいだ。辛く、苦しい食糧難時代。まだラーメンの姿は見えない……そこに舞い込んだのが、戦勝国アメリカからの緊急援助だ。ガリオア資金(占領地域救済政府資金)で買いつけた食糧、アメリカの慈善団体の提供によるララ(公認アジア救済連盟)物資である。これらをもとに展開された施策が「学校給食でのパン導入」。1947年1月に都市部からスタートした学校給食は、パンと脱脂粉乳を主軸に提供され、多くの児童を栄養失調の危機から救った。

 ただ、これはアメリカ農家の余剰小麦を日本で消費させようとする占領時食糧政策でもある。たとえば、巡回キッチンカーによって行われたパン料理講習会は、アメリカのオレゴン小麦栽培者連盟の資金提供によって行われたもの。食糧援助は決して慈悲のみで行われたわけではない。戦勝国の余剰農産物の消費地として敗戦国が選定されたという背景も見逃してはならないだろう。

 しかし、この小麦の流入がヤミ市に意外な余波をもたらす。戦後東京ラーメンの勃興--そう、街にラーメン屋台、露店が大挙として登場したのだ。米より入手しやすくなった小麦粉でつくられる「中華そば」の湯気が、ヤミ市には立ちのぼった。食文化研究家の奥村彪生によると、屋台で提供された「中華そば」は、安く栄養が摂取できるという点で大衆の支持を得たのだという。

 「中華そばのスープは美しく澄んだ品格のあるものではなく、脂がギラギラと浮いており、鶏骨の強い匂い、麺条の鹹水の匂いと人々の体臭の匂いとが混ざり合い、これを一杯食べるだけで力が出そうな気持ちになったという人が多くいます」(『進化する麺食文化』奥村彪生)

 焼け跡からたくましく立ち上がろうとする大衆のバイタリティ。その根っこを支えた一つが、あっさり枯淡な支那そばからワイルドな面持ちに変貌した「中華そば」だったのである。

 当時、安価に開業できる屋台や露店は、身一つで日本に帰ってきた復員兵、引揚者にうってつけのビジネスだった。彼らの中には、中国大陸で本場の中華汁麺に親しんでいた者も多かっただろう。陸軍都だった宇都宮、浜松では復員兵が旧満州由来の餃子を商売にし、「餃子の街」の基盤となった。ラーメンも、またしかり。復員兵たちが大陸と日本食文化をブリッジした足跡に思いを馳せたい。

 また、日本陸軍の料理レシピ本「軍隊調理法」(糧友会・1937年発行)に「煮ハム」「塩豚」「ラード」などの製法が紹介されていた事実にも注目したい。陸軍料理を体得した復員兵たちは、煮豚スタイルのチャーシューやラードを脂っ気の少ない「支那そば」にプラス。野性味で大衆を惹きつける「中華そば」へと進化させていったのだ。

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