田中秀臣の超経済学

なめられる政治家と国民 財務次官のバラマキ批判は「倒閣運動」か

田中秀臣

 財務省の矢野康治事務次官の異例ともいえる「政治的発言」が批判を招いている。『文芸春秋』11月号に掲載された「財務次官、 モノ申す『このままでは国家財政は破綻する』」と題された論説だ。矢野氏の主張は、論説に付けられたサブタイトルで、その趣旨はほぼ尽きている。「誰が総理になっても1166兆円の“借金”からは逃げられない。コロナ対策は大事だが人気取りのバラマキが続けばこの国は沈む」というものだ。

首相のスタンスとズレ

 矢野氏は論説の中で、不偏不党の立場で、客観的に財政の危機的な状況を訴えたとしている。例えば、昨年行われた定額給付金や企業への補助金政策を「バラマキ」の典型例としてあげている。

 あえて今の日本の状況を喩えれば、タイタニック号が氷山に向かって突進しているようなものです。氷山(債務)はすでに巨大なのに、この山をさらに大きくしながら航海を続けているのです。(「財務次官、 モノ申す」より)

 すでにこれらのバラマキ政策で、十分に民間にはおカネが行きわたっている、コロナ禍が終われば消費や投資が一斉に出てくるだけだ、というのが矢野氏の主張だ。さらに昨年度予算の繰り越しが30兆円(4月時点)あるとして、「本当に巨額の経済対策が必要なのか。その経済対策は本当に有効なのか。そのコストや弊害も含めて、よく吟味する必要があります」と言い切っている。

 だが、これは岸田文雄政権の財政政策のスタンスとはまったく異なる。岸田首相は、総裁選の時から、コロナ対策で数十兆円規模の補正予算を訴えていた。詳細は現段階ではまだ不明だが、その中核に困窮者を対象とした給付金政策や、コロナ禍で損失を被った企業への補助金が含まれる。

 これらの政策手段を総裁選の時から岸田首相は明言していた。つまり、矢野氏の発言は不偏不党どころか、単に現政権の政策方針を批判する政治的な動きである。総選挙が近いことも考えれば、一種の倒閣運動といってもいいだろう。

 矢野氏は即刻その責任をとって職を辞するのが妥当な発言だ。岸田首相は、テレビ番組でこの矢野氏の発言を、「いろんな議論はあっていいが、いったん方向が決まったら関係者はしっかりと協力してもらわなければならない」と不快感を表明した。また高市早苗政調会長は、「大変失礼な言い方だ。困っている方や子どもたちに投資しないことほど、ばかげた話はない」とさらに批判を強めた。

 矢野氏は、「今、 標榜されている『経済最優先』も、要するに財政再建は後回しということです」として、岸田首相が国会での所信表明した「経済あっての財政であり、順番を間違えてはならない」とする方針をも否定している。矢野氏は、省内でも屈指の財政再建派といわれている。要するに消費増税などで何度も日本経済の復活を邪魔してきた代表的人物である。もっとも似たような財務官僚は元・現役含めて多く、まさにタイタニックが衝突した氷山の一角でしかない。

 矢野氏の積極的な貢献も、実はある。それは財務省の官僚が、政治家をなめ切っていることが明らかになったことだ。実際に鈴木俊一財務相は、「今までの政府方針を否定するようなものではなく、問題ではない」と断言してしまっている。しかし、上記のように「経済最優先」での積極的な補正予算という政府方針を、矢野論説が否定していることは自明である。

 鈴木財務相は就任してから、財政再建を優先するような発言をしたかと思えば、翌日にはアベノミクスを推進する(=経済再建優先)などと言い、その見識のなさはある意味で見事なぐらいだ。そんな財務相のレベルを見越した矢野氏の言いたい放題なのかもしれない。

 このまま矢野氏が“おとがめなし”であれば、ますます財務官僚たちの政治軽視、すなわち国民軽視は加速するだろう。もちろん、なんらかの“おとがめ”があれば、財務官僚ムラは、その仲良しグループであるマスコミと連動して、政府をさまざまな形で攻撃するだろう。まさに腐敗した官僚たちのよくやる手口である。しかも自分たちは「不偏不党」で「正しい」ことを行っているという過大なエリート意識に裏付けられているので、始末に負えない。

本当に「忠犬」か

 矢野論説の経済論的な誤りも多い。嘉悦大学の高橋洋一教授が主に統合政府のバランスシート分析から、矢野論説を批判している。その他にも矢野氏は、低金利が続くうちにプライマリーバランスの黒字化を実現すべきだ、と言っている。その手段は積極的な財政政策ではなく、「財政再建」だという。つまりは歳出削減と税率引き上げでの歳入増を目指すということなのかもしれない。矢野氏の考えでは、経済成長の安定化、つまりは国民の生活の改善は二の次なのだ。

 実際に彼の論説では、財政政策は単年度での「膨張」がずっと継続して、それが財政危機を生み出すと見なされている。財政政策は国民生活の状況に応じて機動的に行えばいいだけだ。国民の苦境がひどいときは積極財政をやり、改善すれば抑制すればいい。

 だが、アベノミクス期間中では、十分にデフレ脱却をしないうちに、矢野氏ら財務官僚らは「財政再建」=消費増税を推進した。そのためデフレ脱却は達成できないまま、それが国民の生活の不安定をもたらした。

 おそらく矢野氏の肥大化したエリート意識からは、政治家も国民もどんどん必要でもない放漫財政を望んでしまう存在でしかないのだろう。つまり愚民観、あるいは度し難い国民への不信が、矢野論説の前提にある。

 「不偏不党」で「(国民にとって)有意な忠犬」であるべきだとも書いているが、実際には彼はまったく国民を信用していない。財政再建派官僚とは、そういう二枚舌的な存在なのかもしれない。

田中秀臣(たなか・ひでとみ) 上武大ビジネス情報学部教授、経済学者
昭和36年生まれ。早稲田大大学院経済学研究科博士後期課程単位取得退学。専門は日本経済思想史、日本経済論。主な著書に『経済論戦の読み方』(講談社現代新書)、『AKB48の経済学』(朝日新聞出版)など。近著に『脱GHQ史観の経済学』(PHP新書)。

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