しばしばネットをみると、慶応大学名誉教授・竹中平蔵氏への感情的な批判というか、単に怨嗟(えんさ)に満ちた誹謗(ひぼう)中傷を目にすることが多い。まるで竹中氏が日本の影のフィクサーか何かのようだ。
例えば、「竹中氏は派遣法を改悪し、自身が会長を務めるパソナに恩恵を与えた」などというものがその代表例だ。しかし、竹中氏は小泉内閣の総務相であり、派遣法の改正には関与していない。他にも「派遣法改悪」だけでなく、いろいろなパターンがあるが、だいたい彼の私的な利益に結びつくとする批判(誹謗中傷)が大半である。
こう書くと、「そんなに批判が嫌なら竹中氏は政治的な問題に一切関与するな、発言するな」というものを目にした。これなどは個人の意見表明の自由を単に弾圧するだけのものだ。
だが、もちろん、竹中氏の発言が無問題というわけではない。個人的な経験を書くが、私の時論のデビュー作である『構造改革論の誤解』(東洋経済新報社)などでも竹中氏の経済政策観を批判している。たとえば、郵政民営化を公的なお金の流れに傾斜した「資金配分の歪み」を正し、それによって日本の長期停滞脱出するという視点は、日本の長期停滞の真因(総需要不足)からみて政策の割り当てを間違っていると批判した。いわゆる「構造改革なくして景気回復なし」という小泉構造改革路線への批判である。
この種の竹中氏の発言は、しばしば社会が一種の熱狂状態にあるときに行われることが多い。当時ならば小泉純一郎ブームだろう。若田部昌澄早稲田大学教授(現:日銀副総裁)は、経済学史学会の報告「日本における構造改革ーある知性史ー」(2014年)で、竹中氏のこの経済政策観をショック療法に親和的であると指摘した。その指摘は、今回のコロナ禍でも通用する。
最近では、彼のTwitterでの発言に疑問を抱いた。
コロナ問題最大の課題は、病床不足で医療逼迫すること。病床を増やせというと、医療関係者は「出来ない」理由を並べたてる。小泉元首相は官僚に対し、「出来ない理由を言うのではなく、専門家ならどうしたら出来るか案を持ってこい」と常に述べた。「医療ムラ」を解体しないと、日本は良くならない。(竹中氏のTwitterより)
これは新型コロナ禍の最大課題を、病床不足の医療圧迫であり、その主因は医療関係者にあるとしたものだ。これは正しい見方なのか?
竹中氏のTwitterの断片的な発言だけみても不十分である。デービット・アトキンソン氏との共著『「強い日本」をつくる論理思考』(ビジネス社)が参考になる。ちなみにアトキンソン氏の経済論についても、私は批判的である(参照:論説「アトキンソン氏にひきずられるな」『正論』2020年12月号)。
竹中氏は、エビデンスに基づき論理的に考え、ワイドショーのような印象報道に流されないようにしよう、と主張している。この点は100%賛成だ。しかし「医療圧迫」の原因の分析はそれを自ら証明しているだろうか。
まず、竹中氏の論理の前提では、1)日本は人口あたりの病床数が世界一多い、2)コロナ感染者数や死者数の対人口比は、欧米に比べると大幅に少ない、というものがある。この前提から、「今回のコロナ禍において24時間体制で働いているのは、主として国立病院や公立病院の医師や看護士です。これ以上、 病床数を増やそうと思ったら、 民間病院に求めるしかない。ところがそれを実現しようと思ったら 知事は地元の医師会と戦わなければいけない。それをやりたくないから、 病床数をこれ以上増えないことを前提にして、『とにかく感染者数を減らせ』と言う傾向があるのです」と、竹中氏は結論付けている。
しかし感染症専門医の忽那賢志氏が指摘するように、新型コロナを受け入れ可能な人的・医療的リソースをそなえた民間病院は、東京都に関してはキャパシティーいっぱいだったとの指摘がある。
今新型コロナ患者を診ていない民間の医療機関は、感染症専門医もいなければ感染対策の専門家もいない、という施設が多く、こうした民間の医療機関に何のバックアップもないままに「コロナの患者を診ろ」と強制しベッドだけ確保したとしても、適切な治療は行われず、病院内クラスターが発生して患者を増やしてしまう事になりかねません。(忽那氏「医療が逼迫しているのは民間病院のせいなのか?」より)
感染症対応できる人材が、そこから半年たらずで急増できると考えることは、専門性をあまりに軽くみることになる。また、(政権批判的な趣旨が強いが)二木立(にき・りゅう)氏は、この忽那氏の指摘を参照しつつ、日本の病床が実は比較されている欧米に比べて多くはないこと、また東京都の民間病院の“健闘”を以下のように評価している。
入院しているコロナ患者2,784人のうち民間病院に入院している患者の割合は38.4%であり、これは都立・公社・公立の33.9%を上回り、経営主体別の第1位でした。他面、民間病院は中小病院が多いため、コロナ患者を受け入れている病院の割合は21.9%に止まり、80-90%台の国公立・公的とは大きな差がありました。(二木氏「1月前半に突発した(民間)病院バッシング報道をどう読み、どう対応するか?」より)
要するに、竹中氏の主張には現実的な根拠が脆弱(ぜいじゃく)だということだ。「病院ムラ」に責任を押し付けても、社会的な怨嗟以外なにも生まれない。
他方で、竹中氏のようなショック療法的な手法を採らない、日本の医療経済学者たちの主張には聞くべきものが多い。たとえば、一橋大学の高久玲音准教授は、論説「中小民間病院への高い依存と患者分散が医療逼迫を引き起こした」の中で、イギリスなど諸外国は平時から医療機能が大規模病院に集約されて運用されていたが、他方で日本では「5床ずつコロナ患者を診る病院が100ある場合」のような分散型であり、この医療支援体制の違い(集約型か分散型か)をみずに、単に確保病床数にのみ行政が目を向けていた可能性を示唆している。
つまり人口1人当たりの病床数の多寡に注目しても実りある議論にはならない。そして分散型には、忽那氏や高久氏らが指摘しているように、医療機関の連携の面でミスマッチが生じやすく、そのため急性期病院と療養病院など後方支援病院に目詰まりが起き、自宅療養中に重症化し、亡くなってしまうケースも起きうる。この分散型のミスマッチを解消し、あるいは「野戦病院」構想など集約型の対応を行うことも、「医療ムラ」をやり玉にあげて解決できる問題だとは到底思えない。
【田中秀臣の超経済学】は経済学者・田中秀臣氏が経済の話題を面白く、分かりやすく伝える連載です。アーカイブはこちら