安く見られたコロナ禍の闘い
1月18日に召集された第204回通常国会で、菅義偉総理は、就任後初となる施政方針演説を行った。
その中で、違和感を覚えたのが、東京五輪・パラリンピック開催についての箇所だ。
夏の東京オリンピック・パラリンピックは、人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証として、また、東日本大震災からの復興を世界に発信する機会としたいと思います。
感染対策を万全なものとし、世界中に希望と勇気をお届けできる大会を実現するとの決意の下、準備を進めてまいります。
新型コロナウイルスの変異種が登場し、昨年以上に感染者や重篤者が増えている中で、この発言の意図はどこにあるのだろう。
今年の夏にやると言った以上、こう言わざるを得なかったのかも知れない。
それにしても、「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証」としての五輪とは、大きく出たものだ。世界中のアスリートが集まるスポーツの祭典ではあるが、五輪は、所詮「運動会」だ。「人類」を引き合いに出すのは過剰ではないか。世界中で200万人以上が亡くなったウイルスに打ち勝った証が、「運動会」とは、コロナ禍の闘いも安く見られたものだ。
このところの世論調査で、東京五輪を開催すべきと答える人は2割を切ったのは、無論、承知の上だろう。
だとすれば、もう少し言い方はなかったのだろうか。
その上、招致当初から批判され、既に誰も受け入れないであろう「復興五輪」を、今も掲げるという感度の悪さも痛々しい。
コロナに打ち勝てなかったら…
結果的に、東京五輪は、東日本大震災から10年という節目に開会することになった(あくまでも予定だが)が、本当に被災地は「復興した!」と世界に胸が張れるのだろうか。もし、現在の状況を見て、「復興した」と考えているのであれば、おそらくは、多くの被災者と総理の認識に大きなズレがあると言わざるを得ない。
たかだか数行、五輪について言及しただけで、これほどまでに、現政権の迷走ぶりが象徴されているのを見ると、怒りが湧くよりも、気の毒に思えてしまう。
だが、あの発言を穿った眼で見たら、こんな意味にも取れる。
“人類が新型コロナウイルスに打ち勝てなかったら、五輪はやらないよ――”
だとすると、菅総理らしい深謀遠慮と言うべきか。
【真山仁の穿った眼】はこれまで小説を通じて社会への提言を続けてきた真山仁さんが軽快な筆致でつづるコラムです。毎回さまざまな問題に斬り込み、今を生き抜くヒントを紹介します。アーカイブはこちら