草の根交流はプラスかマイナスか 移民論議の穴埋めるピース
最近、欧州の各国の人たちにEUのあり方をインタビューして、「いったい、草の根交流はプラスに働いているのだろうか?」という疑問を抱いた。
草の根の国際交流には、いつも何らかの期待がある。国や大企業の公式の交流では叶えられない、親愛感や個人的な経験に基づいて相互理解が得られると思われている。そして、その理解を礎に個人的なレベルでは見えない世界に対しても、肯定的な態度をとるだろうとの希望がある。
この数年、アフリカや中東からの欧州への難民が急増した。2015年、オーストリアではそれまでの年間1-2万人の難民が9万人近くまでに増え、その対応にNGOなどの団体のボランティア活動家が動いてきた。
政府にできないなら自分たち市民が何とかするしかない、と自宅に難民を泊め文字通り身体をはっている。
これが緊急事態の草の根交流の風景である。
他方、難民だけではなく、移民(ここでは企業の駐在員であろうと、旅行ではなく長期間滞在する人を総称している)に対して、「反対」とおおっぴらに公言する人が増えている(気がする)。「移民をこれ以上受け入れたくない。まずは自国民の安全な生活を政府は優先して欲しい」と訴える。
しかし移民反対という人たちも、自分の近くの友人の移民には「あなたは、ここにいて良い」とこれまた“公言”する。やや小さな声であっても。
少々読み取りにくい状況だ。
昨年12月19日にベルリンのクリスマス市に大型トラックが突っ込んで多数の死傷者がでたテロ事件のあと、同市に住む移民がブログに書いていた。
「移民反対の声がメディアに多く掲載されているが、それは全体の姿を的確に伝えていない。私が直接知っている周囲の人たちは、多様な人の共存に寛容である」
ぼくがこの文章を読んで思うのは、ざっくりいって、半分の人たちが移民に寛容であり、もう半分の人たちが移民に反対である、という図式がもはや描けない、ということだ。なぜなら、このブログを書いた人の周囲にいる寛容な人も、見知らぬ移民に対して態度を変える可能性が高いからだ。
かつてこの種の議論は理念と現実、総論と各論の乖離であり、例えば、多民族や多人種の共存が理念であり総論であった。この総論への支持がEUを支えてきた。が、日々の生活に外国人が入ってこられると言葉や文化の違いから消極的になる。これが各論での反対の背景である。
しかし現在見えているのは、違う論理からくる風景だ。総論において移民反対であり、各論のレベルに落としこむと移民を個人的には受け入れる。
これは草の根交流への絶望なのか。いや、希望なのだろうか。近い人を排除しないかわりに、遠くの見えない人を排除するのは、草の根交流の賜物であるにしては、あまりに寂しい結論ではないか。
大きな壁を動かすかもしれない草の根ではなく、自分の周囲しか見ない草の根なのだ。それでも周囲の移民を排除しないだけマシというべきなのだろうか。
とにかく言えることは一つ。
周囲の人間が温かい言葉を言ってくれるから安心、と喜んでいられない状況を前にしても、この周囲の温かい言葉を頼りに人は生きるしかないのだ。
今はあまりに状況が混沌としているために見切れないことが多い。人との信頼関係も壊れやすい。が、状況の何が本当で、何が本当ではないかの判断は、人の言葉を信頼してこそ可能だ。
あることがらを1から100まで全て見ている人などいない。どこかに必ず穴ができる。それを想像力や推測で補うか、そこを見ている人の言葉を信じるか、どちらかしかない。
草の根の交流とは、この穴を埋めていく存在でもあるのだ。とても心細いことがあるし、裏切られることもある。
が、ここにしか立つべき場はない。(安西洋之)
【プロフィル】安西洋之(あんざい ひろゆき)
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