仕事全体に「魂」を込める 職人技と機械生産を繋ぐイタリア流の極意
ぼくの奥さんはピアノを教えているが、音楽院の先生のレッスンも受けている。最近、先生から衝撃的なアドバイスを受けたという。
練習しているバッハの曲で、どうしても指を上手く運べないところがある。そう難しくないはずなのに、その部分が苦手で音がペシャッとなる。そこだけ弾けば何ということはないのに、通しで弾くとひっかかる。だからその前から緊張し、なおさら失敗する。
そうしたら先生が次のように言った。
「その音符はそれほど重要じゃないから、弾かなくても全体に影響を与えることない」
奥さんは驚いた。
「楽譜に記してある音符を飛ばすのが解決策?」
幼少の頃からピアノを弾き始めてきて、初めて聞いた助言だった。楽譜に忠実になることが第一であると考えてきた。弾けない箇所は繰り返しの練習が唯一の解決策だった。が、今回、楽譜に忠実であるとは曲全体をより良く表現することで、弾きづらい音符の為に音楽を壊すことはない、と教えられた。
これがきっかけで、ぼくはイタリアの職人の考え方について思いを馳せた。
日本で職人という言葉から連想するのは、あるモノの完璧な仕上げだ。100%と言ってよい。目に見えるところは当然、目の届かない箇所にも気を配る姿だ。
その結果なのかどうか、「モノに魂を込める」と職人の仕事は聖なる領域である、という見方がされやすい。
しかし、イタリアの職人はモノに魂を込めない。
普通、魂という表現を使わないが、仮に使うとするならば、あるモノ一つではなく、やっている仕事の全体に魂を込める。やや大局的な位置に立つ。
すると、次のような展開のロジックになる。
一つのモノは完璧に仕上げようとする。しかし、同じモノを100個作るのであれば、一つ一つを同じように完璧にできないのは当然である、と考える。手仕事には限界があるから、職人の仕事と機械生産のミックスとの解決策に向かう。それがイタリアは職人技を量産品に取り入れるのが上手い、と評価を受ける背景になる。
職人仕事が機械生産と断絶なく繋がりやすいのは、職人技への見切りがはっきりしているからこそ、である。このように職人の仕事をとっても全体と部分の捉え方が、日本とイタリアで異なる。
実は、今年に入って、あるイタリア人に言われた言葉が耳に残っている。
「日本のクルマはあんなにも品質が良くて丁寧に作っているのに、どうして最高に美しいクルマを作れないのか? 細部のデザインと細かい作業を全体のカタチに仕上げるプロセスで何か致命的な問題があるのではないか」
かつて評論家の加藤周一は、日本と西洋文化の違いを次のような事例で説明した。
江戸の大名屋敷は部屋の継ぎ足しでできた格好をしている。最初に全体のイメージ図を描いたとは思えない。他方、欧州の城は最初に外観を決めてから部屋割りを考えている。
都市計画においても、最初に都市の軸線を決めた欧州とカオスな街並みを作った日本の風景は異なる。
この事例を今まで文化差の説明としてぼくも何度か使ってきたが、これは乗り越えられないギャップなのかとよく思う。細部が丁寧で全体のイメージも秀でることは、夢想でしかないのだろうか。
そんなことはない。
ねらい目は細部への拘り方を変えることだと思う。細部を粗野に扱うのではなく、細部と全体を繋ぐところにこそ、人が積極的に介入するスペースを作ることではないか。別の表現をとれば、聖的な要素を消し去ることだ。
小さな一つのことを、少し離れたところから眺め、それを大きな像に結びつける。それができれば最高に美しいクルマも実現可能だ。
文化理解を諦念のために使ってはいけない。勇気を得るために使うのだ。(安西洋之)
【プロフィル】安西洋之(あんざい ひろゆき)
ローカリゼーションマップとは?
異文化市場を短期間で理解するためのアプローチ。ビジネス企画を前進させるための異文化の分かり方だが、異文化の対象は海外市場に限らず国内市場も含まれる。
関連記事