安全保障関連法案をめぐる国会審議は、国家主権や国民の守護など国益に必要か否かより「自衛官のリスク」が先行する。法案潰しを狙い自衛官の命を気遣う偽善はミエミエ。いっそノーベル賞作家・大江某のごとく、防衛大学校生は「現代青年の恥辱」と表現してくれれば「前時代の輩」で片付くが、今の左翼は中庸を装うので始末が悪い。しかも、激烈な火力と対峙する自衛官に、警察官と同じ武器使用基準を強要する隠れ左翼ほど「自衛官のリスク」を叫ぶ。大きなお世話だ。
自衛官の命を気遣うフリをする勢力は、集団的自衛権の限定的行使を可能にせんとする政府に「憲法改正が筋」と説教を垂れる勢力とも重なる。本心では自衛官の命などどうでもよく、改憲も嫌がる反動分子なのだ。欠陥憲法・法制で縛られる自衛官は命の危険を克服すべく、限りなく100%に近いリスク回避を求め作戦を練る。それでも、東日本大震災(2011年)では被曝覚悟の《鶴市作戦》を用意した。民主党政権はリスクを正視する自衛官の決心に心打たれるでもなく、自衛隊など諸組織を前に高圧・感情的な指揮・統率モドキを露呈する。無能・無策でリスクを広げた民主党が「自衛隊のリスクは飛躍的に高まる」と連呼する無様は滑稽である。