京都市右京区の嵯峨遺跡から、14世紀中ごろの南北朝時代以降に創業したとみられる酒造りの遺構が出土していたことが21日、わかった。天龍寺などの寺院が手がけた僧房酒(そうぼうしゅ)の関係遺構とみられる。民間調査会社「国際文化財」(本社・東京都)によると、搾りから貯蔵までの工程がわかる遺構としては、これまで延宝2(1674)年の旧岡田家住宅(兵庫県伊丹市)が最古とされており、約300年さかのぼることになるという。
昨年、マンション建設に伴い世界遺産・天龍寺近くの約700平方メートルを調査。その結果、口の広い甕(かめ)を180個分据えた跡が並んだ状態で出たほか、搾(しぼ)り機などや貯蔵施設も確認。また、一角からは木柱の基礎部分が見つかり、遺構全体を覆う建物跡(南北12メートル、東西14メートル)も発見された。
木柱は約1・5メートル間隔で東西に2本確認され、いずれも根元が残り、直径30センチと45センチ。頑丈に固定するために柱に段差をつけてほぞ穴を開け、十字状に横木を通して、その上に重石として数個の巨石が置かれていた。木柱の近くには大型の壺を据えていたとみられる円形の穴なども見つかった。
同社は、遺構は出土状況などから清酒造りの施設で木柱は天秤(てんびん)型の酒搾り機と断定。天秤型は布袋入りの醪(もろみ)を酒槽(さかふね)と呼ばれる容器に収め、太い棒の先端に重しをぶら下げた撥木(はねぎ)で酒槽の蓋を押し、酒を搾る仕組み。柱は撥木を支える男柱(おとこばしら)とみられる。穴は酒槽から搾り出た酒を受ける垂壺(たれつぼ)が据えられた跡とみられ、現存する搾り機と符合するという。
2本の柱はともに出た土器などから設置に時期差があり、14世紀中ごろから15世紀後半までの百数十年間を2期に分けて操業していたこともわかった。同社の村尾政人主任調査員は設置時期の差について、「酒造で得た利益をもとに高利貸を営んだ土倉(どそう)や社寺を借金で苦しんだ民衆による土一揆(つちいっき)でいったん破壊されたのでは。その後再興したが、再び何らかの理由でなくなった可能性がある」と指摘。
一方で、岡田家住宅の地元で、酒造の歴史に詳しい伊丹市立伊丹郷町館の小長谷正治館長は「搾り機を含む遺構は岡田家住宅より古く貴重な遺構だが、搾るだけでは清酒にならないので、この遺構を清酒造りにつなげるのは早計だろう」としている。
国内の酒造り 弥生時代に始まったとされ、奈良時代からは透明度の高い「浄酒(すみざけ=清酒)」が寺院などで造られており、これらは僧坊酒と呼ばれた。京都での酒造りは朝廷が管理したが、平安時代後期以降に伏見や嵯峨で大衆化が進み、嵯峨では西行が酒屋で歌を詠んだエピソードが残るほか、16世紀に豪商・角倉(すみのくら)一族が酒屋を営んでいたことなどが古文書に残る。