「なぜか無性に食べたくなる」「飲み干せずにはいられない、あのスープ…」。そんなラーメンは数あれど、箸が立つほどこってりした『天下一品』の一杯は、その最右翼と言えるだろう。この人気チェーンが生まれたのは京都の一乗寺。典雅で枯淡印象のある京都の食シーンから、なぜこのような極濃厚ラーメンが生まれたのか? その時代に誕生したラーメン店に焦点を当て、日本経済の興隆と変貌、日本人の食文化の変遷を活写していく本連載。今回は、京都から名乗りを上げた濃厚ハマり系ラーメン『天下一品』をクローズアップ。70年代初頭に訪れたパラダイムシフトを追う。
■飢餓から飽食へ-総中流社会に濃厚ラーメンがくさびを打つ
君は天下一品のラーメンを食べたことがあるか?
上品に言えばポタージュ、有り体に言えばゲル。レンゲを沈めんとする際の反発係数は、もはや液体ではない。超ドロドロ、濃度というよりは粘度で計りたい。そんなスープなのだ。ドロリとした舌触りの先に味蕾が感じる旨みは、鶏の重厚なシルエット。後口は決して鈍重ではなく、鶏由来のコクと香りに昇華する。醤油ダレの香りも食欲を後押しし、箸とレンゲの無限ムーブが止まらない。
中細麺を引き上げればスープがねっとり絡みつき、みるみるスープ水位が下がっていく様にも、眼を見張るだろう。この無二なラーメンは今や日本、アメリカで230店以上のフランチャイズチェーンを拡大。フリークのみならず、広く一般層にも「天一」として親しまれる味だ。
このラーメンを創業したのが木村勉。1971年、京都は銀閣寺そばでラーメン屋台を引き始めた叩き上げの硬骨漢だ。創業当時、木村は36歳。15年も勤めた絵画販売会社が倒産し、全財産は3万7000円というどん底からのスタート。初期投資もなく始められるのはラーメン屋台しかなかった。
自分で拾い集めた廃材を友人の板金職人に組み立ててもらい、ベニヤにトタン板を乗せて屋台をこしらえた。鍋を買う金もない。ガソリンスタンドから譲ってもらったオイル缶を幾日もかけて洗い、鍋にした。食材を満足に買う金もない。ネギ一束も買えず、1本ずつ購入。これぞ自転車操業という綱渡りの始動だった。
当時のラーメンは1杯80円、初日の売り上げはわずか11杯。「どこの屋台でも出してはる鶏ガラスープ」だったというが、彼は屋台商売のかたわら新スープの開発に没頭。濃度を高めるだけではなく玉ねぎ、にんじんなどの野菜を加えて甘み、旨みもブーストしていく。そして誕生したのが、現在の味わいに連なるこってりスープである。スープ開発からほどなくして木村は屋台を卒業。北白川に店舗を構え、1日1000杯以上、休日には1800杯を売り上げるお化け店舗に成長させていく。
ここで70年代初頭の世相、経済事情を振り返ろう。1970年は国勢調査によると日本の総人口が1億人を超えた年だ。また、同年の「国民生活に関する世論調査」では、自らの生活程度を「中の上/中の中/中の下」と評価する人が9割を超える。かくして到来したのが「一億総中流社会」。ちなみに、敗戦直後の飢餓状態を調査するために始まった「国民栄養調査」でも、1971年には「栄養欠乏」に関する項目が削除され、代わりに「肥満」調査が取り入れられている。
飢餓から飽食へ--焼け跡、闇市から湯気を上げ始めたラーメンも、大衆の「胃袋を満たす」役割を終え、「肥えた舌に訴求する」フェーズに突入しつつあった。連載第6回で紹介した「ラーメン二郎」は豚濃厚スープを東京で旗揚げしたが、京都の木村は鶏の濃厚な味をベースに「天下一品こってりスープ」を高らかに掲げたのである。
■千年の都にして日本一の学生タウンは「こってりスープの寸胴」だ
上品に言えばポタージュ、有り体に言えばゲル……前述のように『天下一品』のラーメンを説くと、「京都」と「こってり濃厚ラーメン」の掛け合わせに首をひねる人もいる。「京料理」といえば、京野菜の色彩、うま味を生かした雅な仕上がり。さらに若狭湾から運ばれる魚介料理、寺院の影響を受けた精進料理といったイメージが根強い。
確かに、1970年代~90年代には「京風ラーメン」が各地のデパートや集合施設で花開いた。さらりと淡いスープに京菜や湯葉などを乗せ、甘味などといただくスタイルで、『京都あかさたな』『京らーめん 糸ぐるま』などのチェーンが台頭。首都圏をはじめ全国にチェーンを展開し、女性客を中心に一定の支持を得たこともある。
しかし、ローカルの京都ラーメンは『天下一品』系以外にも、豚ベーススープに濃い口醤油スープの『新福菜館』系、鶏ガラベースの醤油味に豚背脂をふりかけた『ますたに』系など、大きく3系統に分類される。いずれもパンチがあり、“京風”ラーメンとは似ても似つかぬ面持ち。京都ラーメンは決して淡口、薄口ではないのだ。
そもそも、彼の地は平安京、長岡京以来1000年にわたって政治文化の中心であり、各地の食物が密に流入した千年級のセンタースポット。京料理を慎重に腑分けすると、総合プロダクトとしての出自が浮かび上がる。たとえば、京料理のシンボルとも言える「おばんざい」。各地の多彩な食材を組み合わせ、おだしを基盤にして手間ひまかけて作る緻密な料理。だしの基になる昆布は、北前船によって北海道から運ばれ、若狭港経由で到来したものだ。
「いもぼう」は長崎からやってきた海老芋と、北海道産の棒ダラを炊き合わせた京料理。おなじみ「にしんそば」も、昆布出汁と身欠きニシンという北方食材のマッチングである。乾物や保存食材を基本に、全国の食材をふんだんに用いて一皿に昇華させる。そんなコンセプトは、現代ラーメンにも通底するものだ。京料理のベースとラーメンには意外にも親和性があるのである。
日本きっての学生街も濃厚ラーメンのインキュベーターだ。京都市域の人口の10人に1人(約15万人)が大学生で、人口に占める学生の割合はダントツの1位だ。『天下一品』が本店を構えた一乗寺も 京都大学、京都精華大学、京都造形大学といったキャンパスがズラリ。食べ盛りの大学生が濃厚スープを強烈にプッシュし、その後の京都濃厚ラーメンの系譜が紡がれていったのは間違いないだろう。
■職人・板前が先導したギルド社会の終焉に人情肌フランチャイズとして台頭
話を1970年代初頭に戻し、木村勉が「ラーメン店での修業なし」で起業に踏み切った背景も考察してみよう。彼は一般的な製法を屋台仲間の中国人に教わるが、「そこらへんにある醤油ラーメンとほとんど変わらなかった。これではアカン」と、独学で研鑽を積み、イノベーションを目指していく。
実業界は第一次ベンチャーブームにして脱サラブーム到来に湧いていた。いざなぎ景気末期で雇用環境に陰りが見える中、ニクソンショックによる過剰流動性のもとで多くのベンチャーキャピタルが立ち上げられ、資金調達は比較的容易だったからだ。ぴあ(1970)、モスフードサービス(72年)、コナミ(73年)、コナカ(73年)など、現在に続くメジャー企業がいくつも産声を上げ、喫茶店や飲食店などスモールビジネスの起業に踏み切る脱サラ組も多かった。
第一次オイルショック(1973年)によるリセッションを前にしたわずかなひととき、木村のような脱サラ者は次々に暖簾を掲げる。たとえば、1967年、両国に1号店をオープンしたチェーン『札幌ラーメン どさん子』。木村が屋台を引き始めた1971年の時点では、北海道にも逆上陸して500店舗を突破。1977年には何と1000店舗の大台にまで至ったほどだ。
折しも、国内初のセントラルキッチンを導入したロイヤルが先導し、ファミリーレストランやファストフードのチェーンが続々開店。「外食産業元年」とも呼ばれる1970年から、外食シーンは「単純化・マニュアル化・システム化」の波が席巻していた。職人や板前が先導する「見て学ぶ」「技を盗む」暗黙知のギルド社会が隘路に差しかかった時代だ。
機を見るに敏な木村もセントラルキッチンを柔軟に取り入れ、フランチャイズ展開へ踏み切った。食材の納入から調理まで一括して行い、冷蔵・冷凍で各店舗へと運ぶ。店舗キッチンでは解凍や仕上げのみを行うのがセントラルキッチンシステムだ。しかし、スープ製法の秘密を把握するのは製造、管理を担う本社工場の責任者数人のみ。
「最初はFCはするつもりなかったんです。自分とこで出来る範囲でええと。ところが、いろんな人が教えてくれ、教えてくれきはりますのや。わし、断り切れんかった」(「夕刊フジ特捜班「追跡」ラーメン立志伝-- 丼に賭けた男たち(2)」より)
と語るように、ドライなだけではなく人情肌の一面も隠さない。屋台から無手勝流で起業、己のスープで一本独鈷の勝負。鮮やかなブレイクスルーを果たしたのが『天下一品』木村勉だ。暖簾分けからフランチャイズへ、商いからビジネスへ--時代の変化に先鞭をつけつつ、唯一無二の一杯として広く、濃く愛される。その魅力は、レードルからどろりと垂れる、あのこってりスープのように奥深い。
【ラーメンとニッポン経済】ラーメンエディターの佐々木正孝氏が、いまや国民食ともいえる「ラーメン」を通して、戦後日本経済の歩みを振り返ります。更新は原則、隔週金曜日です。アーカイブはこちら