スープはコッテリ、脂もギットリ。肉に野菜が「これでもか!」と盛られたラーメンがある。三田に本店を構える『ラーメン二郎』だ。新旧の価値観が激突した60年代に端を発し、現在まで熱狂的に支持され続ける特異なラーメン。その一杯を追えば、戦後を疾駆してきた団塊の世代の光と影も見える。その時代に出現したラーメン店に焦点を当て、日本経済の興隆と変貌、日本人の食文化の変遷を活写する本連載。今回は、『ラーメン二郎』の誕生から現在まで、現在進行形の運動体を追っていこう。
■いざなぎ景気の1968年 『二郎』の前身が走り出す
「大きいことはいいことだ、おいしいことはいいことだ」
作曲家の山本直純が指揮し、1300人もの大合唱団が歌い上げる「森永エールチョコレート」のCMが流れたあの頃、日本は57か月間連続で景気が拡大した「いざなぎ景気」の渦中にあった。昭和元禄の幕が上がれば、エコノミックアニマルなんて言われても気にしない。ウサギ小屋からGNP世界ナンバー2へ。列島全体が「大きいこと」にまっしぐらだった。
そんな1968年、一人の男が都立大学駅(目黒区)に『ラーメン次郎』という店を開業する。和食で10年ほどのキャリアを積んだ山田拓美である。当初は慣れないラーメンづくりで閑古鳥が鳴いていたが、近隣の独身寮の常連からアドバイスを得て、独自の味わいを完成。それはコッテリスープにボリューミーな麺と、現『ラーメン二郎』に連なる味だったという。歴史を遡る前に、まずは『二郎』のありようを整理しておこう。
モヤシにキャベツなど大盛りの野菜に、“豚”と呼ばれる煮豚チャーシューがチョモランマのように屹立。丼から溢れんばかりのスープには豚骨と豚肉が醸し出すコクと甘みがあり、凶暴なまでの油脂分も含んでいる。香りを立たせるのは個性的な風味の醤油ダレ。極太麺は箸で持ち上げるのも一苦労で、もぐもぐ噛むのもまた一興。たっぷりの背脂がコッテリまとわりつき、ふりかけられたニンニクもインパクト十分。とどめとばかりに、ジャンクさを味蕾に突き刺すうま味調味料。恐るべきボリュームと旨みの破壊力! まさに「大きいことはいいことだ」、高度経済成長を牽引した重厚長大産業を具現化したような一杯である。
1998年に発行された『ラーメンマニアックス』では、既にその魔力が都市伝説的に語られている。曰く-
「二郎は二郎であって、ラーメンではない」「もはやラーメンではありません。あの店で供されているのは『二郎』という名の料理なのです」
現在、『ラーメン二郎』は東京近郊を中心に直系として35店舗を展開。一般的なチェーンとは異なり、各店がある程度の裁量を持っているためラーメンの味わい、メニューも微妙に異なっている。しかし、その凶暴なジャンクさとボリュームは通底。まさに「ラーメン二郎という概念、理念」が一門を貫いているのだ。
さて、創業時に時を戻そう。都立大学で創業して3年後、山田拓美は店名を『ラーメン二郎』と変え、店舗を三田に移す。この移転を機に、ラーメンはさらにボリューミーに、さらに旨みをブーストした味わいに。他の追随を許さないラーメンへ先鋭化していくのである。
■昭和大学生の胃袋を満たすべく、魔術的進化を遂げる
三田に移転し、『ラーメン二郎』は慶應義塾大学のお膝元に店を構える。キャンパスにベビーブーム世代が続々とやってきた頃だ。1960年に10%だった大学進学率は1968年に23.8%へ上昇し、大学生・短大生の総数も152万5000人へと急増。慶應義塾大学も高度成長下で定員を大幅に増やし、日本大学、早稲田大学に次ぐマンモス校になっていた。
「陸の王者」として名を馳せた慶大だけに、体育会系の活動も盛ん。『二郎』は慶大生、特に体育会系の塾生に愛されるようになった。山田拓美は大の相撲好きだったこともあり、柔道部や野球部、相撲部の学生らと意気投合。試合の応援に駆けつけたり、柔道部の合宿にも顔を出したりするほど親密になったという。1996年に区画整理のため移転を余儀なくされた際は「学食に二郎を誘致しよう」と署名運動が起こったり、應援指導部一同が応援歌『若き血』を熱唱して閉店を見送ったりと、熱きエピソードにも事欠かない。
そもそも、『二郎』のラーメンのパーツを構造化すると、「腹を空かせた学生たち、特に体育会系の大食いの連中に安く食べ、腹一杯になってもらおう」という山田の志が見える。
麺は製麺所のものではなく、低コストで済む自家製麺だから、他店の約2倍に及ぶ約300gを使える。ゴワゴワした独特の食感は安価なパン用強力粉「オーション」を使っているからだ。スープに用いる豚のウデ肉は醤油ダレで味つけし、具材の「豚」としてドカンと合わせる。他のトッピングも小洒落たものは一切排除し、安くてかさがあるモヤシ、キャベツを乗せてしまう。
それでいて、基本のラーメンは一杯600円(三田本店)。半端のない盛りとなる大盛りラーメンでも+50円、約300gの豚が入った「豚入りラーメン」も+100円という破格のラインアップだ。『二郎』のラーメンは原価率40%以上と推定されており、店主の気概なくしては提供できないハイコストラーメンなのだ。
そして、濃厚な味わいと超ボリュームは、創業者の山田とベビーブーマーの創発によりできあがったものでもある。食欲旺盛な運動部員たちのリクエストに応じて「アブラ(背脂)」がトッピングされ、味は濃く、野菜の量も増えていった。煮豚を増した「豚入り」、さらにギガ盛りした「豚ダブル」も、学生たちがメニュー短冊を勝手に作って店に持ち込み、山田が鷹揚に認めて採用に至ったというから恐れ入る。
1948年生まれの批評家・加藤典洋は「人間としての成長期が1960年からはじまった日本社会の高度成長期と重なったこともあります。時代は自分たちの後についてくる、というような全能感の感情が、自分の中にありました」と語っている。
エレキブームや東大安田講堂を終局とする学生運動に象徴されるように、団塊をなすベビーブーマーが旧来の日本的価値観とぶつかり、きしみ合いながら進んでいった時代だ。「時代は自分たちの後についてくる」慶大生たちの全能感が自由闊達な山田イズムと響き合い、前代未聞のラーメンが共創されたのかもしれない。
さて、大量生産・大量消費を美徳とした高度成長の宴にも、いつか終わりが来る。産業公害や都市圏の交通戦争、住宅問題など、成長の歪みが顕在化しはじめた70年代初頭。「大きいことはいいことだ」と経済を謳歌したCMも「モーレツからビューティフルへ」に移り変わり、ニッポン経済は「量から質へ」を指向し始めた。
しかし、どうだろう。その後、現在に至るまで『二郎』の濃厚さ、ボリュームはさらにマシマシになり、魅惑の一杯に魅せられる「ジロリアン」の行列も伸びる一方だ。「二郎は二郎であって、ラーメンではない」。そのフレーズが心に刺さったら、あなたも二郎の行列に並んでみてほしい。背脂のきらめき、太麺の歯ごたえの先には、重厚長大の夢がいまだに広がっているのだ。
【ラーメンとニッポン経済】ラーメンエディターの佐々木正孝氏が、いまや国民食ともいえる「ラーメン」を通して、戦後日本経済の歩みを振り返ります。更新は原則、隔週金曜日です。アーカイブはこちら