始まる「がんゲノム医療」(上) 薬局に遺伝子タイプ別の薬が並ぶ日が来る
ショーケースに並ぶ胃腸薬、解熱剤、アレルギー性鼻炎の治療薬…。だが、同じ胃腸薬でも、患者の遺伝子のタイプごとに商品がある。将来は、遺伝子のタイプ別に薬が開発され、個々人が自分に合う薬を購入することをイメージした日本科学未来館(東京都江東区、毛利衛館長)の展示「未来のドラッグストア」だ。
同館の科学コミュニケーター、毛利亮子(あきこ)さんは「遺伝子は身体の設計図。遺伝子のタイプごとに薬を選ぶのが、未来のドラッグストアです。こうした個別化医療の時代が来ることは、だいぶ以前から予測されていました」と言う。
この展示のように、ドラッグストアに遺伝子のタイプ別の薬が並ぶのは、まだしばらく先になる。だが、がん治療の現場では、患者のがん細胞の遺伝子変異を調べて、一人一人に最適な治療薬を見つける「がんゲノム医療」が実用化のスタートラインに立った。
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東京都中央区の国立がん研究センター(中釜斉(なかがま・ひとし)理事長)の中央病院で4月、患者のがん細胞から、がんに関連する遺伝子変異を1回の検査で網羅的に調べる「遺伝子パネル検査」とそれに基づいて最適な薬を選ぶ診断が、国の「先進医療」で始まった。
先進医療は、研究段階から実用化を目指す第一歩の位置づけで、新しい技術の安全性や効果を評価する仕組み。同病院はがんゲノム医療を行う「中核拠点病院」に指定されており、1年後の保険適用を目指す。同センターの中釜理事長は「ゲノム情報に基づいて診断をすると、患者に、より有効性の高い薬を提供できる。それを公的保険で利用できるようにすることに意義がある」と力を込める。
対象は、がんの発生場所が分からず治療選択が難しい患者や、効果の確立した既存の抗がん剤治療を終えた患者など205~350人。公的医療保険が一部しか適用されないため、患者には約50万円の自己負担がかかる。
4月末、同病院の専門医らが治療方針を検討する会議(カンファレンス)に集まった。一般的なカンファレンスと違うのは、医師らの手元に患者のがん細胞の遺伝子変異の解析結果があったこと。診療情報と照らしながら、こんな会話が飛び交った。
「希少がんの男性。この検査結果からは(女性特有の卵巣がんに承認された新薬)PARP(パープ)阻害剤が候補になる」
「この女性には家族性疾患を疑わせる遺伝子異常が検出されている。遺伝相談外来への紹介を検討してはどうか」
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ただ、この検査には課題もある。最大の課題は、現時点では遺伝子検査を経て、実際に薬を使える人が10%程度にとどまること。検査では約半数にがんと関連する遺伝子変異が見つかるが、まだ薬がなかったり、効果の期待できそうな新薬の「治験」が終了していたり、患者の状態が治験に合わなかったりするためだ。
もう一つの課題は、検査の過程で思いがけず家族性の遺伝子変異が見つかるケースがあること。未発症の親子や兄弟姉妹に影響するため、遺伝診療に携わる医師や遺伝カウンセラーらとの連携も必要だ。
中釜理事長は「薬に結びつく割合は10%のままではない。使える薬が増えれば割合も高まる。そのためにもわれわれ中核拠点病院が、真剣に開発研究を進めなければならない。25%くらいに持っていければ、だいぶ景色は違って見える。ここ1年は正念場。4、5年で、そこまで持っていければと思う」と話す。
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がん細胞の遺伝子変異を網羅的に解析し、患者に最適な薬を選ぶ「がんゲノム医療」。「治療法がない」と言われた人に薬を見つけたり、より効果の高い抗がん剤を選んだりできると期待される。がん治療はどう変わるのかリポートする。(佐藤好美)
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■均質な体制が必要 「病院の連携と協力がカギ」
がんゲノム医療を公的医療保険で使うには、全国で均質な体制が必要になる。厚生労働省は準備を急いでおり、3月までに全国で11カ所の「がんゲノム医療中核拠点病院」と、100カ所の「がんゲノム医療連携病院」を指定した。
中核拠点病院に指定される条件には、(1)網羅的な遺伝子検査(遺伝子パネル検査)を実施する体制がある(2)その結果を医学的に解釈する専門家チームがある(3)専門的な遺伝カウンセリングができる(4)新薬を開発する体制と実績がある-などが挙がる。
中核拠点病院に指定された病院では、遺伝子パネル検査を国の「先進医療」で行う動きが活発だ。国立がん研究センター中央病院に続き、東大医学部付属病院(東京都文京区)も4月下旬、検査が先進医療に認められた。京大医学部付属病院(京都市)も今夏には、先進医療で始めたい考えだ。
京大大学院医学研究科の武藤学教授は「保険適用になったときに医療機関の診療レベルに地域格差が出ないよう、中核病院同士の協力は不可欠。また、がんゲノム医療を、必要とするすべての患者に届けるには、連携病院でもパネル検査や治療決定ができるよう、支援していく必要がある」と話している。
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◆「環境整備が急務」
遺伝性疾患の当事者団体「ゲノム医療当事者団体連合会」の太宰牧子理事長の話 「がんゲノム医療が先進医療で始まったが、患者負担は高いのに治療に結びつく確率はまだ低く、期待と現実に落差がある。医療職は一例一例、丁寧に経験を重ねてほしい。患者も技術の進歩を享受するには相応の情報と知識が必要だ。それがないと、薬が見つからなかったときのダメージが大きい。10年後には、がんの遺伝子検査があたりまえになると思う。遺伝情報の取り扱いをはじめ、家族性の遺伝子変異があっても差別されない体制づくりなど、社会的な環境整備が最大の課題だ」
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【用語解説】がんゲノム医療
患者のがん細胞の遺伝子変異を調べて、一人一人に合った抗がん剤を選ぶ個別化医療。
現在は、がんができた場所によって治療薬が決まるが、がんの場所が違っても、がん発生の原因となった遺伝子変異が同じなら、同じ薬が効く可能性がある。
特定の遺伝子変異をターゲットにした既存の薬には、セットで検査薬が開発されるが、1種類の遺伝子変異しか調べない。100種以上の遺伝子変異を一度に調べられれば、発生頻度の低い変異も見つけられる。例えば大腸がんの患者に乳がん患者の遺伝子変異が見つかれば、効果の期待される乳がんの薬を選ぶことも可能になる。
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