「生きているうちに事件の舞台裏を伝えたい」 イトマン事件、OBが激白 (1/3ページ)

イトマン事件について語るイトマンOBの傍士倶明氏
イトマン事件について語るイトマンOBの傍士倶明氏【拡大】

  • 許永中氏への論告求刑公判が行われた大阪地裁の法廷(代表撮影)=平成12年11月14日

 大阪の中堅商社イトマンを通じて3千億円が闇社会に消えたとされる平成3年のイトマン事件。バブル期を象徴する戦後最大の経済事件といわれたが、平成も終わりに差しかかり、当時の関係者の多くが表舞台を去り、社会からその記憶が薄らぎつつある。「生きているうちに事件の舞台裏を伝えたい」。同社常務として社長の電撃解任などの節目に立ち会い、現在は大阪市内の会社で役員を務める傍士倶明(ほうじ・ともあき)氏(82)が、マスコミに初めて体験を語った。(井上浩平)

 争乱前夜の血判状

 冷たい雨が降っていた。平成3年1月25日未明、大阪市内のホテルの一室に、当時のイトマンの河村良彦社長=22年、85歳で死去=を除く同社幹部らがひそかに集まった。同日午前に開かれる定例役員会で、無謀な投資を重ねて会社に膨大な損害を与えたとして、河村解任の緊急動議を出すことを確認していた。

 「事態はそこまで来たか。会社を守るにはそれしかない」。常務の傍士氏は招集をかけた反社長派の説明に納得したという。

 幹部らは動議に賛成することを誓い、指に朱肉を付けて押印。「固い決意を表す『血判状』だけに裏切ることはできないと思った」

 数時間後、同市中央区本町のイトマン本社で始まった役員会。その冒頭、河村氏の開会宣言と同時に副社長が立ち上がり、「河村氏の代表取締役および社長の解任を求める」と動議を出した。

 役員数人を残して傍士ら約25人が起立し、社長解任が決定。「議題にないから無効だ」。河村氏はこう叫んだというが、そのまま退場。このクーデターはイトマン事件のハイライトの一つとなった。

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