【九州の礎を築いた群像 西鉄編(10)】ライオンズ 復興支えた栄光の「野武士集団」 創設の裏に白洲次郎、GHQ…

2013.12.17 22:53

 昭和38年10月20日夜、プロ野球パ・リーグの西鉄ライオンズの今季最終戦となる対近鉄バファローズ戦。勝てば5年ぶりの逆転優勝で、福岡市の平和台球場は3万人以上のファンの熱気に包まれた。

 2ー0のリードで迎えた最終回。午後8時29分、最後の打者を迎えた。「あと一人…」。4回から登板している23歳の投手、安部和春に不思議と緊張感はなかった。白球が指を離れた瞬間、「打ち取った」と確信した。ライトフライ-。地鳴りのような歓声。ベンチから選手が飛び出すと同時に観客席からファンがグラウンドになだれ込み、選手たちと抱き合った。

 まさに奇跡だった。

 西鉄は7月中旬、首位の南海ホークスに14・5ゲーム差をつけられたが、30歳の選手兼任監督、中西太の下で「鉄腕」エースの稲尾和久(1937~2007)らが奮起し、南海を猛追。10月19、20両日のダブルヘッダーの計4試合を全勝して優勝をつかんだ。3年連続日本一を果たした昭和31~33年の熱気が久しぶりに平和台に帰ってきた。

 往年の平和台球場は、三池や筑豊から応援に駆けつける炭鉱労働者も多く、気性が荒かった。勝てばよいが、負ければ「きさん(貴様)、くらすぞ(殴るぞ)!」。と容赦なく野次が飛び、一升瓶が投げ込まれた。他のチームにとっても平和台は鬼門だった。

 皮肉なことに西鉄ライオンズの栄枯は産炭地の盛衰とピタリと重なる。3年連続優勝後の34~35年には三池炭鉱争議が起き、石炭産業は斜陽化する。そんな時代背景だけに、38年の優勝は産炭地の人々にも希望の光となった。

 だが、優勝からまもない38年11月9日、三池炭鉱三川坑(大牟田市)の鉱炭じん爆発事故が起きた。犠牲者458人と一酸化炭素中毒患者839人を出したこの事故は産炭地の衰退を決定づけた。

 奇跡の優勝から今年でちょうど半世紀。73歳となった今も福岡・中洲でスナックを営む安部はこう振り返った。

 「そりゃあ、優勝が決まった瞬間の球場はすごい盛り上がりだった。『もうこんな経験は2度とできない』と思ったよ。当時は自分たちが勝つことしか考えていなかった。負ければファンが怖いしね。でも今思えば、支えてくれた地域の人たちに恩返しができたんじゃないかな…」

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 ライオンズのルーツは昭和24年に遡る。

 「費用は惜しまないから日本一の球団を作れ! 戦後復興に尽くす福岡の人々に明るい話題を届けよう」

 この年の夏、村上巧児(1879~1963)は西鉄事業部の社員らに突然こう命じた。すでに第4代社長を4年前に退任し、無役だったが、その影響力はなお絶大だった。西鉄は21年6月に社会人野球チームを発足させていたが、村上の意向には誰も逆らえず、社員らはこの日から球団結成に動き出した。

 村上は大の野球ファンだったが、それだけで球団結成を思い立ったわけではない。当時の平和台球場にはナイター照明さえなかったが、3交代制の炭鉱労働者なら昼間の試合でも観戦にきてくれる。朝夕ラッシュ時以外の電車やバスの乗車率も上がるはずだ-。こう算盤を弾いたのだ。

 24年はプロ野球の変革期でもあった。日本野球連盟総裁だった正力松太郎(読売新聞社主、1885~1969)が同年4月、米大リーグに倣い、球団数を増やして2リーグ制を導入する構想を表明したからだ。

 これを機に毎日新聞や西日本新聞、近鉄、大洋漁業などが続々と加盟を申請。西鉄も10月に申請した。

 正力は当初、関東、関西から遠く離れた福岡の企業の新規参入に難色を示した。困った村上は、福岡県選出の衆院議員で首相の吉田茂(1878~1967)の女婿である麻生太賀吉(麻生太郎副総理の父、1911~1980)に泣きついた。

 「それなら連合国軍総司令部(GHQ)の力を借りればよいじゃないか」

 麻生からこんな助言を受けた村上は、吉田の腹心でGHQと太いパイプを持つ白洲次郎(1902~1985)を密かに訪ねた。

 その後、村上は、西鉄事業部に在籍していた親戚筋の中島国彦(90)を球団創設の特命係に指名し、白洲との折衝役を命じた。中島は上京する度に、24年1月に発売されたばかりの福岡・中洲の「ふくや」の明太子を持参した。白洲はこの博多の珍味を非常に気に入り、パンに塗って食したという。

 その後、白洲やGHQが正力や野球連盟にどんな圧力をかけたのかは分からないが、加盟交渉は急にスムーズになり、11月26日にパ・リーグへの加盟を果たした。

 球団名は「西鉄クリッパーズ」(高速帆船の意)。参戦1年目の25年は7球団中5位に終わったが、2年目のシーズン開幕前の26年1月、セ・リーグに所属する西日本新聞社所有の「西日本パイレーツ」を吸収し、「西鉄ライオンズ」に改称した。そこで総監督に招かれたのが、読売巨人軍を戦後初の優勝に導いた名将、三原脩(1911~1984)だった。

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 三原が目指したのは、九州にふさわしい豪快なチームだった。

 球界屈指のスター選手で東急フライヤーズ所属の大下弘(通称・青バット)、中西太(怪童)、豊田泰光、高倉照幸、仰木彬-。三原は27年以降、後の黄金期を支える個性派選手を次々に獲得し、育てた。

 29年に初のリーグ優勝を果たすと、稲尾が入団した31年からは3年連続のリーグ優勝と日本一に輝いた。

 巨人軍に3連敗後、稲尾の4連投で4連勝し、逆転日本一に輝いた33年の日本シリーズは語り草となる。破天荒でドラマチックなチームは「野武士軍団」と称され、稲尾は「神様、仏様、稲尾さま」、三原は「魔術師」と呼ばれた。

 ライオンズは西鉄の名を全国ブランドにした。西鉄の営業マンが東京や大阪で「サイテツさん」と呼ばれることもなくなった。

 だが、34年のシーズン終了後に三原が退団し、主砲の大下が引退すると成績は低迷した。それだけに38年のリーグ優勝は「野武士軍団の復活」を印象づけた。

 村上は10月20日の優勝当日、大分県別府市の自宅で病気療養中だったが、稲尾から電話で優勝報告を受け、大喜びした。そしてライオンズ復活に安堵したのか、翌21日に84歳で息を引き取った。

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 昭和44年のシーズン終了後、ライオンズ、そして西鉄に激震が走った。

 10月8日の読売新聞と報知新聞のスクープに始まる「黒い霧事件」だった。暴力団絡みの八百長に関わったとして西鉄の4人を含むプロ野球6投手が永久追放処分になった。

 これを機にライオンズは弱体化し、観客数も激減した。地元財界でも「福岡の面汚し」などと批判され、新聞紙上でも散々に批判され、ついに西鉄第9代社長、楠根宗生(1901~1989)まで引責辞任に追い込まれた。

 路面電車事業の大赤字を抱え、経営難に陥っていた西鉄本社にとって、もはや球団所有のメリットはなかった。西鉄第10代社長、吉本弘次(1912~1990)と、球団オーナーの木本元敬(93)=後に第11代社長、現相談役=は「金額は二の次でいいから誰かに引き取って欲しい」と球団売却に動いた。

 47年11月、ライオンズは、元ロッテオリオンズオーナーの中村長芳(1924~2007)がゴルフ場会社「太平洋クラブ」の資金協力を受けて設立した福岡野球株式会社に「ただ同然」で売却。

 ここで西鉄ライオンズは23年間の歴史に幕を閉じた。西鉄社内ではライオンズに関する話題はタブーとなった。若手社員が「西鉄ライオンズを復活させてほしい」と言うと、先輩から即座に「そんなこと大きな声で言うんじゃない!」とにらまれた。

 51年10月にはスポンサーが太平洋クラブからクラウンガスライターに代わり、54年には西武鉄道に買い取られ、埼玉県所沢市に本拠地を移した。

 新しく球団オーナーに就いた堤義明(79)=元コクド会長=は「西鉄とわれわれは別の球団」と縁切りを宣言した。刊行物や球団史から西鉄時代の記述は消され、稲尾、中西、豊田ら黄金期の選手が西武ライオンズの監督やコーチに起用されることはなかった。

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 プロ野球史から消された西鉄ライオンズは26年後、突如復活した。

 平成17年3月、西武鉄道株をめぐる証券取引法違反事件で堤が逮捕・起訴され、失脚した。19年5月、みずほ銀行出身の西武ホールディングス社長、後藤高志(64)がオーナーに就任すると「西武ライオンズの歴史は西鉄から始まった」と明言し、球団OBとの関係修復を図った。

 20年には「ライオンズ・クラシック」と題したイベントを行い、西武ライオンズの選手は公式戦10試合で西鉄ライオンズ黄金期のユニフォームを着用した。イベント最終日(8月21日)の西武ドームでのセレモニーには、かつての野武士たちが勢ぞろいした。

 「私たち西鉄ライオンズは地球から消えていましたが、もう1度日の目を見ることができ、感動しています。人生で今日ほど幸せな日はありません…」

 OBを代表して豊田があいさつすると観客は万雷の拍手。このイベントは今季まで毎年続いている。

 西鉄社内でも、ライオンズをタブー視する空気が変わり始めた。

 平成20年、創立100周年記念社史の編纂を担当した吉富実(59)=現アーカイブ担当課長=は資料収集中、倉庫に眠っていた往年の選手らの写真ネガを大量に発見し、写真集の出版を企画した。

 だが、それにはある人のゴーサインが欠かせない。球団譲渡時にオーナーだった木本だった。吉富が面会を取り付け、恐る恐るお伺いをたてると、木本は穏やかな表情でこう答えた。

 「100周年記念にちょうどいいじゃないか。僕も経営判断としてライオンズを手放したけど別に嫌いになったわけじゃない…」

 この瞬間、西鉄内でのライオンズの封印は解けた。

 その後の動きは早かった。20年9月、福岡三越で西鉄ライオンズの歴史を振り返る初のパネル展を開催した。西南学院大で硬式野球部主将だった常務の中尾和毅(61)=現副社長=が積極的に動き、「ライオンズファンだから西鉄に入社した」という第16代社長の竹島和幸(65)=現会長=も後押しした。

 21年4月には地元出版社の海鳥社が写真集「西鉄ライオンズとその時代」を出版した。今年11月3日には福岡市博物館(福岡市早良区百道浜)の一角に、往年の写真や野球道具などを並べた常設展示コーナーがお目見えした。

 これにはライオンズのオールドファンも喜んだ。長年、球団の歴史を伝える活動をひっそりと続けてきた「西鉄ライオンズ研究会」も博物館に多数の資料を提供した。研究会事務局長で元西鉄社員の篠隈信二(58)は満足そうにこう語った。

 「ずっと隠れファンを続けてきましたが、やっと堂々と語れるようになりました。戦後、福岡の産炭地には日本中から労働者が集まり、明日の命もわからない仕事に汗を流したことが日本復興の礎となった。ライオンズはそんな彼らの『共通言語』だったんです。西鉄が球団を持っていた意義はとても大きく、誇れることだと思います」(敬称略)

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