【通信大競争 30年攻防の行方】(3)
1995年8月16日の朝、第二電電(DDI)副社長の千本倖生(72)は青ざめた。自ら事業を立ち上げて7月に始めたばかりのPHSサービスが停止し、通話できなくなったためだ。基地局の数に対し制御するソフトの能力が追いつかず、電波の同期が取れなくなったのが原因だ。千本は必死で修復作業を指揮したが回復したのは5日後だった。
稲盛和夫(83)に請われてNTTを辞め、DDIの創業に携わった千本にとって、PHSは携帯電話に対抗するサービスの柱だった。全国展開の矢先につまずいたものの、PHSはその後、音質の良さや割安感から契約数を伸ばし、日本発の通信規格として海外普及も期待できる「次世代通信技術の本命」ともてはやされた。
パケット通信やカメラ付き端末、スライド式キーボード装備のスマートフォン…。いずれもPHSが携帯電話に先行して実用化した技術だ。自販機など機器同士が直接通信する「組み込み型機器」の分野でも、割安なPHSが先陣を切った。一時はDDI子会社のDDIポケットのほかNTTパーソナル、アステルグループの地域会社約30社が携帯電話の対抗サービスとして売り出した。