だが、34年のシーズン終了後に三原が退団し、主砲の大下が引退すると成績は低迷した。それだけに38年のリーグ優勝は「野武士軍団の復活」を印象づけた。
村上は10月20日の優勝当日、大分県別府市の自宅で病気療養中だったが、稲尾から電話で優勝報告を受け、大喜びした。そしてライオンズ復活に安堵したのか、翌21日に84歳で息を引き取った。
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昭和44年のシーズン終了後、ライオンズ、そして西鉄に激震が走った。
10月8日の読売新聞と報知新聞のスクープに始まる「黒い霧事件」だった。暴力団絡みの八百長に関わったとして西鉄の4人を含むプロ野球6投手が永久追放処分になった。
これを機にライオンズは弱体化し、観客数も激減した。地元財界でも「福岡の面汚し」などと批判され、新聞紙上でも散々に批判され、ついに西鉄第9代社長、楠根宗生(1901~1989)まで引責辞任に追い込まれた。
路面電車事業の大赤字を抱え、経営難に陥っていた西鉄本社にとって、もはや球団所有のメリットはなかった。西鉄第10代社長、吉本弘次(1912~1990)と、球団オーナーの木本元敬(93)=後に第11代社長、現相談役=は「金額は二の次でいいから誰かに引き取って欲しい」と球団売却に動いた。
47年11月、ライオンズは、元ロッテオリオンズオーナーの中村長芳(1924~2007)がゴルフ場会社「太平洋クラブ」の資金協力を受けて設立した福岡野球株式会社に「ただ同然」で売却。